2012年

12月

25日

尖閣諸島を発見した日本人 大浜 京子

 尖閣諸島に二〇一〇年九月、境界線意識がボーッとしていた日本人を覚醒させる出来事がおこり、ハンマーで右の足を思いっきり叩きつけられた様な痛みを感じた。ああ、尖閣諸島を守らなければ、日本は中国共産主義国に乗っ取られてしまうと強く思った。中国という国は海賊国家である。中国人が悪いという事ではなく、国体が悪い。政治体質が悪いのである。


 さて、尖閣諸島の名前の由来は、一八三七年にイギリス海軍のライラ号、一八四五年にはリマラン号などが島々に来航し、安政六年(一八五九年)には日本本土からも役人が調査にやってきたと資料に記されている。尖閣諸島の島影がピナクル・アイランズ(尖閣島)とイギリス海軍の航海図に記載されてあったように尖った島々に見えたからかも知れない。当時はどこの島にも属していなかった。

 

 アホウドリが楽しく悠々と暮らしていた島の楽園であったらしい。自然界の生き物が主(あるじ)だったのである。アホウドリは世界最大級の海鳥で、西洋では貴婦人達の帽子の飾りに使われたり羽毛布団として使われていた事から重宝がられ、古賀辰四郎氏が貿易として使うために九州から石垣にやって来て、羽毛から鰹節工場まで手掛けたらしい。

 

 95歳になる私の母は、当時の様子をまだ覚えている。明治に入って上江洲村長が主のいない尖閣諸島を石垣島の登野城に登記し、たくさんの人々が尖閣諸島で生活しバード・ラッシュ(日本人がアホウドリを追いかけた現象)がおこったとある。アホウドリとは人間の名づけた失礼な名称である。乱獲によって島から姿を消したが、最近姿を見せているという。
(石垣市登野城)

2012年

5月

01日

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。―(前略)今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。(中略)村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。―


 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。―(前略)安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。(中略)先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次―


 これが慶良間の〝集団自殺〟(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。―恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。(中略)座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降。隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。―


 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。


 人間の尊厳を取り戻す時
 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。―


 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。


 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ。僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。                                               (おわり)

2012年

4月

30日

慶良間で何が起きたのか⑤ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 パンドラの箱を開けた宮城晴美さん
 一九九五年六月下旬、沖縄タイムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺言―切り取られた〝自決命令〟」を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、子供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は〝嘘〟だった、というのだ。「母はどうして座間味の〝集団自決〟が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。


 ―一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に〝玉砕〟の申し入れを断られた五人はそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。―


 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要)の中で次のように記している。「二十五日夜十時頃、戦備に忙殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その用件は次の通りであった。一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。二、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。私は愕然とした。私は答えた。一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。二、弾薬は渡せない。しかし、彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開されたので、彼らは急いで帰って行った。」


 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来、軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人々は戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんは晴美さんに残した手記で記していたのだ。


 そうか、そうだったのか。僕の目の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には「年金」を支給するという条件を出してきたため、座間味だけではなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなかったのだ。宮城晴美さんは正にパンドラの箱を開けてしまった。「母は関係者が存命しているうちは発表してはならないが、いつか必ず真相を発表してくれ」と晴美さんに遺言していたが、晴美さんは母の遺言に背いて新聞で発表した。『母の遺したもの』という本を出版し、時の人となったが、村の関係者から「余計なことをした」とさんざん叱られる羽目になり、本を書き換えたり、裁判に出ては涙ながらの証言をしたり、パンドラのようにひどい目に遭っているようだ。パンドラの箱から飛び出したものが元に戻らないように、彼女が告白した衝撃の真実は変わらない。パンドラの箱からこの世の全ての悪徳が飛び出した。宮城晴美さんは真実の扉を開けた。パンドラの箱には希望が残ったが、晴美さんの箱には知りたくない真実が残った。だが、少なくとも僕の眼の前の霧を払ってくれた。心から感謝している。


 二〇〇六年一月、産経新聞は、琉球政府で援護課業務に携わった照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに戦没遺族援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は一九五七年には援護課に勤務していないという証拠がある」と産経新聞の「誤報」を報じたが、後日、照屋さんは大切に保管していた一九五四年の「任命書」を提出し、この問題は結着したが、タイムスがこの失態を報ずることはなかった。タイムスも新報も重要証人の照屋昇雄さんに一切取材していない。


 梅澤さんは前記の手記の終りに記している。「座間味島の軍命令による集団自決の通説は村当局が厚生省に対する援護申請のため作製した『座間味戦記』および宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島』の手記が諸説の根源となっている。」初枝さんが梅澤さんに「本当にごめんなさい」と謝った時、梅澤さんは感涙したとのことだ。 (つづく)

2012年

4月

29日

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 現地調査で知った意外な事実
 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする。『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」


 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」


 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」


 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。  (つづく)

2012年

4月

28日

慶良間で何が起きたのか③ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 ―神もおののく集団自殺
 僕は一九八五年、タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2情報部のG2サマリーを中心にした「沖縄戦日誌」を連載し、その中でニューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷住民の〝集団自殺〟を発表した。その要旨に次のようなものだった。


 神もおののく集団自殺―三月二十九日発。昨夜我々第77師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。手榴弾が七、八発爆発した。偵察に出いようとすると闇の中から狙い撃ちにされ、仲間の兵士が一人射殺され、一人は傷を負った。我々は朝まで待つことにした。その間、人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。ようやく朝方になり、小川に近い狭い谷間に入った。何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけだった。そこには二百人ほどの人がいた。(注:第77師団G2リポートは二百五十人と記録している。)そのうちおよそ百五十人が死亡、死亡者の中に六人の日本兵(※)がいた。死体は三つの小山の上に束になって転がっていた。およそ四十人は手榴弾で死んだと思われる。周囲には不発弾が散乱していた。木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる三十五歳ほどの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、前かがみになって死んでいた。自分で自分の首を絞め殺すことは全く信じられない。小さな少年が後頭部をV字型にざっくりと割れたまま歩いていた。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを注射し、痛みを和らげてやった。全部で七十人の生存者がいたが、みんな負傷していた。生き残った人々はアメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると、驚きの目で感謝を示し、何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかかるよりも自らの死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今、気づいたのだろう。自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵が保護してやった。なんとも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から、泣き崩れた。―以上が一九四五年四月二日のニューヨーク・タイムズが報じた渡嘉敷住民の集団自殺の要旨だ。だが、僕はこの記事を公表した時点で気付かなかったが、※印を附した日本兵とは実は防衛隊員であったことを知ったのは一九九五年春と夏に渡嘉敷島に渡って現場調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。その前年の一九九四年、僕は戦後五十周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるため「おきなわプラス50市民の会」を組織し、その活動の中でデイブ・ダーベンポートさんから渡嘉敷の「集団自殺」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それは衝撃的なものだった。一九九六年六月、僕はそれを「沖縄戦ショウダウン」と題して琉球新報紙上で発表した。その一部を次に紹介しよう。


 ―一九四五年四月二十七日夜明け、僕たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で三人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。その途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ十メートル、深さ三メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。年配の男たちが小っちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々、爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。医療班がかけつけ、全力を尽くして生き残った者を手当したが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。―


 この阿波連のウフガー上流の集団自殺については、いかなる沖縄戦の本にもなく、タイムスも新報も全く触れていない。だが、第三戦隊陣中日誌は記す。「三月二十九日―悪夢のごとき様相が白日眼前に晒された。昨夜より自決したる者約二百名(阿波連においても百数十名自決、後判明)」。グレン・シアレスさんの手記を見事に裏付けている。        (つづく)

2012年

4月

27日

慶良間で何が起きたのか② ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 二〇〇八年八月上旬、170回に達した頃、ぼくの連載を担当している記者が「編集部の方からパンドラの連載をそろそろ終わってくれないかと言ってきた。」と伝えた。ほかの連載が予定されているからだそうだ。ぼくは、いよいよ来たか、と思った。ほかの連載が予定されている、というのは嘘だ、と知っていた。だが、ぼくは「それじゃ、八月一杯で終わろうな」とあっさり言った。新報社内のギスギスした雰囲気にうんざりしたからだ。そこで、『最終章―そして人生は続く』を短くまとめることにした。最終章四回目にぼくは一フィート運動の醜い内幕を暴露する原稿を出した。案の定、編集部は書き換えるよう指示してきた。そこでも、ぼくはあっさり折れ、差し障りのない話にまとめた。だが、最後の五回目(181回)にぼくは「慶良間で何が起きたのか」について短くまとめ、原稿を出した。もちろん、今度も編集部は書き換えを指示してきた。だが、ぼくの腹は決まっていた。これで終わりだ、書き換えることは絶対ない、と通告した。編集部はぼくの友人であった社長を入れて鳩首会談を開き、最後の原稿はボツにすることになった。こんなわけで読者がこの原稿を目にすることもなく、「おわり」を告げるぼくの声を聞くこともなかった。前代未聞のできごとだった。


 三年間の連載を不本意に終えて間もない2008年10月、うらそえ文藝誌の星雅彦編集長から連絡が入り、会うことにした。彼の雑誌で「集団自決」の真相について対談したい、と言うのだ。彼はぼくと新報の〝喧嘩〟を耳にしていた。ぼくは星さんの顔を知っていたが、話したことはなかった。彼も長い間、〝鉄の暴風〟が間違いだらけであることを知っていて、ぼくの「パンドラの箱」が中断した後に、琉球新報に〝鉄の暴風〟について小論を出したところ、編集方針に反する、ということで不採用になった、ということだ。そして、まもなく、彼が長年担当してきた新報の美術評論も外された、ということだ。新報の担当者に理由を聞くと、「星さんの文章は難しいからだ」とすぐバレる嘘を言った、というのだ。実は沖縄人にはこうした小さな嘘を平気でつくという習性があるのは確かだ。ぼくはこうして、『うらそえ文藝』で「人間の尊厳を取り戻す時、―誰も語れない〝集団自殺〟の真実」を発表した。そして、同時に「集団自決をめぐって」と題する星さんとの対談の中で、沖縄タイムスと琉球新報を痛烈に批判した。ぼくの愛読者には申し訳ないが、ぼくが再び、両紙で連載することはないだろう。ぼくは既にルビコン川を渡ってしまったのだ。ぼくはこれからも赤松さんと梅澤さんの名誉を回復することに全力をかけて戦いを続けていくだろう。それが沖縄の子どもたち、そして子孫たちに真の誇りを伝えていくことにつながるからだ。今、ぼくは人間の尊厳をかけた「戦争」の真っ只中にいる。


 以下は「慶良間で何が起きたのか」短いながらも読者が理解しやすいようにまとめたもので、2009年「うらそえ文藝」で発表した「人間の尊厳を取り戻すとき」に若干手を加えたものである。


  はじめに―僕はこの二十数年、戦争を「人間が試される究極の舞台」として物語を書き、読者に伝えてきた。だから、反戦作家ではない。それどころか、僕は戦争の物語から「人間とは何か、そして自分とは何か」知ろうとしてきた。そして人間について多くのことを学んだ。


 人はよく戦争とは醜いものだと言う。だが、僕は最も醜いはずの戦争の中に最も美しい人間の物語を発見し、それを読者に紹介してきた。暗黒の世界に一条の光が差し込むと、その希望の光は真夏の太陽よりも眩しいものだ。米須精一、グレン・ネルソン、グレン・スローターの三人組が洞窟に隠れている住民数千人を救出した話、轟の壕で玉城朝子さんとい美しい女性が数百人の住民と兵士を説得し、投降させた話など例を挙げればキリがない。僕は数々の戦争の物語を伝えてきたが、まだ伝えていない大切な物語がある。それは慶良間の〝集団自殺〟の話だ。そこには誰も語らない、語れない物語がある。そこには、〝希望の光〟が残されているのだろうか。


 慶良間の〝集団自決〟をめぐる論争
 2007年沖縄では沖縄タイムスと琉球新報が「慶良間の集団自決は軍命令によるものだ」というキャンペーンを張り、ほとんどの読者は「赤松と梅澤が自決を命令した」と思い込んで「安心」している。この問題は、渡嘉敷の海上挺進第三戦隊長であった故赤松嘉次さんの弟、秀一さんと座間味の海上挺進第一戦隊長であった梅澤裕さんが「自決命令を出していない」として、その名誉を傷つけたとする「沖縄ノート」の著者大江健三郎さんと出版社の岩波書店を訴えたことに起因する。だが、その真の原因は五十年間のロングセラーを続けている沖縄タイムスの『鉄の暴風』に在ることは誰の目にも明らかだ。


 一九五〇年沖縄タイムス、(販売元朝日新聞)は『鉄の暴風』を2万部発刊した。この本によって「赤松大尉と梅澤少佐は集団自決を命令した極悪人」であることが「暴露」され、そのイメージが定着した。一九七〇年、曽野綾子さんが赤松さんら第三戦隊の隊員らに取材し、現地調査を行い、『ある神話の背景』を著(あらわ)し、「赤松嘉次さんは集団自決を命令していない」と発表した。だが、沖縄の人々が曽野綾子さんの真実の言葉に耳を傾けることはなかった。僕もその一人だった。ちょうど、孵化したばかりの雁の雛が、最初の目にした動物を母親だと思って、ついて行くように、若い頃植え付けられた先入観を払拭することは困難なのだ。      (つづく)

2012年

4月

26日

慶良間で何が起きたのか① ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 はじめに、2011年1月31日ぼくは琉球新報を憲法の表現の自由違反と著作権侵害で訴えた。その内容は慶良間の〝集団自決〟の真相を伝えようとする一作家を封殺そして弾圧する新聞社の横暴ぶりを告発するものだった。―これだけでも前代未聞の一大事件だが、沖縄の新聞社もテレビも黙殺を続けてきた。そんなわけでぼくの戦いを知る沖縄の人々はほとんどいなかった。そんな中で八重山日報が去る一月と三月に江崎孝さんの〝上原正稔の挑戦〟を掲載し、そのニュースはあっという間にインターネットを通して全国に広がった。琉球新報も沖縄タイムスも自分たちの都合の悪いニュースは一切黙殺を続けている。しかし、今、八重山日報に続いて、五月十日には『うらそえ文藝』が江崎孝さんの八重山日報の「上原正稔の挑戦」論考の縮刷版を発表する運びになった。


 読者もよくご存じのように教科書問題では八重山日報は傲り高ぶった沖縄タイムスと琉球新報に対し、敢然と「真実の報道」を続け、見事に勝利したと言ってよい。真実は多数決で決まるものではないことを証明したのだ。


 ぼくの数えるほどしかいない友人らはぼくのことを「勇気がある」と評するが、それは勇気ではない。人のために尽くす、自分のために尽くすな、とぼくの尊敬するロジャー・ピノー先生から教えられた。その言葉を守っているだけだ。「集団自殺」の問題は実は「自分自身のために尽くしている」琉球新報と沖縄タイムスに対する「人間の尊厳を懸けた戦い」なのだ。それをこれから伝えよう―


 2006年初頭、ぼくは琉球新報の編集長から沖縄戦の長期連載を依頼された。何年でも自由に続けてくれ、ということだった。それだけぼくを信頼してくれていたのだ。第一弾としてその年の四月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」147回を発表し、好評を博したと言ってよい。何の問題も起きなかった。第二弾の「パンドラの箱を開ける時」が2007年5月末から始まり、その冒頭でぼくは次のように予告した。


 「第二話 慶良間で何が起きたのかは今、世間の注目を浴びている〝集団自決〟についてアメリカ兵の目撃者や事件の主人公たちの知られざる証言を基に事件の核心を突くものになるだろう。」だが、第二話が発表されることはなかった。ぼくの物語はその後、四ヶ月間中断した。一体何があったのか。ぼくの連載の新担当者となっていたМ記者には多くの原資料と一週間分の原稿を渡していた。その時、Мはこれはおもしろそうだな、と嬉しそうに言った。そして翌日上京することになっていると話した(東京で何があったのか、誰に会ったのか、そのうち明らかになるだろう)。六月十五日(金)のことだった。ところが、六月十八日の月曜日、Мから新報社に来てくれ、と連絡が入った。新報社に着くと、Мはヤケに威張った調子で、ぼくを編集部の上の階の空き部屋へ連行した。そこには顔見知りの編集記者三人が難しい顔をしてぼくを待っていた。Мはいきなり言った。「第2話は載せないことにした。」「何だと!どういうことだ。」ぼくは怒鳴った。記者の一人が「新報の編集方針に反するからだ。」と冷ややかに言った。別の記者は「君は何年か前に同じ記事を書いているじゃないか。重複は許さん。」ぼくは言った。「それは君らの屁理屈だ。僕は第1話の伊江島戦でも日本側とアメリカ側の両方の資料を使っている。その一つは既に新報で発表している「沖縄戦ショウダウン」を使ったぞ。第2話も「沖縄戦ショウダウン」や多くの資料を使って4、50回の長編にして赤松、梅澤の名誉を回復するものにするつもりだったのだ。その資料はМにも渡している。彼は喜んでいたぞ。」だが、四人組はできんものはできんの一点張りで前に進まない。ぼくは言った。「君たちにはぼくの連載にストップをかける権利があるのか。表現の自由の権利を侵しているんだぞ。ぼくは記者会見でこれを発表する。」一人の記者(現編集局長)があわてて「記者会見はやめてくれ」と言った。話は決裂した。


 こうして6月19日から始まることになっていた「慶良間で何が起きたのか」が発表されることはなかった。翌日から予告を読んで期待していた読者から新報に抗議や問い合わせが殺到し、新報社内は騒然となった。ブログで毎日のように「パンドラの箱…」を追っていた江崎孝さんもそんな読者の一人だった。一般の読者は気づかなかったが、彼は「言論封殺」が起きていることをいち早く悟っていた。そのことは「上原正稔の挑戦」で詳しく述べられている。産経新聞の小川さんも同様だ。二人とも報道に関わっているから敏感なのだ。


 実はこの時期2007年6月は琉球新報と沖縄タイムスが「集団自決には命令があった」とする大キャンペーンの真っ最中にあったことを忘れてはならない。3月31日政府が「教科書から集団自決の軍命削除」の記事が新報、タイムス両新聞で大々的に報道され、大キャンペーンが始まっていたのだ。新報とタイムスはオピニオンリーダーとしてその社説や社会面、文化面で各市町村に働きかけ、8月までには全市町村が「集団自決には軍命あり」の決議が出されているという異様な状況だった。しかもその議決文がほとんど同じ文面を並べている始末だった。


 「パンドラの箱…」が中断し、読者からの抗議や問い合わせが殺到しても琉球新報が上原正稔の筆を折っても図々しく構えていた理由もそこにある。中断から四ヵ月後、Мが連載担当から除され、連載を再開することにし、読者には申し訳ないが「慶良間で何が起きたのか」は飛ばすことになった。        (つづく)

2012年

3月

24日

ドキュメンタリー作家上原正稔の挑戦2 第6回口頭弁論傍聴記  江崎 孝

 3月13日「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第6回口頭弁論が那覇地裁で行われた。地元の有力紙がその新聞に長期連載をしていたドキュメンタリー作家により「言論封殺」で訴えられたという沖縄では異例の裁判沙汰を、沖縄メディアはまるで歩調を合わせるように完全黙殺を続けている。昨年の2月に第1回口頭弁論が開始し、すでに1年以上も経過しているにもかかわらず、この裁判ついて報じる沖縄紙は皆無なのである。


 当然のことながらこの裁判のことを知る県民はほとんどいない。13日の第6回口頭弁論についても翌14日の沖縄2紙がこの裁判については1行の報道もないのは予想通りである。


 当日は29席の傍聴席のほとんどを原告上原氏の応援団が占め、一方の被告側は前回は欠席したI主任弁護士を含む3人の代理人のみが出廷し、被告のR紙が出廷しないのは過去6回の口頭弁論を通じて同じである。原告側は、代理人の徳永弁護士と原告上原氏の2人が出廷し、通常なら代理人の意見書、証拠書類、当事者の陳述書などは代理人同士の書類の交換のみで終了するとの事だが、今回も原告の上原氏の希望を裁判長が認め、提出済みの陳述書を法廷で読み上げた。


 昨年2月の第1回口頭弁論でも上原氏は、陳述書の提出だけでは納得できず被告弁護団に向かって陳述書を読み上げたのだが、いかにも異色のドキュメンタリー作家上原氏の面目躍如で、型破りの陳述であった。


 裁判とは法廷を舞台に原告と被告が丁々発止と渡り合うもので、原告が被告を語気鋭く糾弾するのはテレビの法廷ドラマなどでお馴染みのシーンだが、上原氏の場合は攻撃する相手のR紙が欠席したせいなのか、代理人のI弁護士に怒りの矛先を向けた。上原氏が特にI弁護士に名指しで批判の矛先を向けるのは代理人としては、ある意味、お門違いと言いたくもなるだろうが、これに訳があった。


 I弁護士はR紙の社長を務めた沖縄の代表的ジャーナリスト故I・H氏のご子息であり、上原氏はI・H氏を生前、個人的に知っており、ジャーナリストとして尊敬していたというのだ。I・H氏の人となりを個人的に知る上原氏なればこその上原氏独特の代理人批判であった。


 上原氏がR紙の隠蔽体質に対し怒りをもって提訴に踏み切った心情を知る意味で参考になるので、上原氏が法廷で読み上げた陳述書の全文を次に引用する。


 ≪「今の新聞人はしっかりしろ」戦時下の新聞記者は語る 上原正稔
 2008年の夏のことだが、ぼくは友人であった高嶺朝一新社長に例の四人組の理不尽な〝リンチ事件〟については一切触れず、「ニューヨーク・タイムズのような立派な新聞を作ってくれよ」と激励した。戦時中、ニューヨーク・タイムズはアメリカの新聞全てが日本人を「ジャップ」と呼ぶ中で唯一「ジャパニーズ」と呼んだ公正高潔な新聞だった。しかし、高嶺はこれまで指摘したように「パンドラの箱を開ける時」の最終回をボツにするという悲しい暴挙に出たのである。このような行動がいかに愚かであるかをぼくは第9話「生き残った新聞人は証言する」で具体的に示したつもりだった。
 ぼくは第6海兵師団アクション・リポートと第301CIC報告書の中の捕虜となった沖縄の新聞人の尋問調書を取り上げ、かなり詳しく戦時中の新聞社の悲しき実態を伝えた。又吉康和、高嶺朝光、豊平良顕、I弁護士秀意ら戦前戦後を通じて沖縄の新聞報道で著名な人々は深く反省し、新しい新聞を作るために「報道の自由」がいかに大切であるかを訴える姿を伝えた。その中で、ぼくは次のように書いた。「今、戦没新聞人の碑に十四人の名が刻まれている。彼らの死を無駄にしないために生き残った『新聞人』は新聞を復活させた。新聞人として最も大切なものを掲げて。それは『報道の自由』だ。」その最後に「アメリカ軍G2戦時記録」で発表した「捕虜の嘆願書」を引用した。
 同時に第9話は今、裁判の中でR紙が主張する「新しい資料だけ」でなく必要とする様々の資料を使っていることを示している。今、新聞社自身が赤松嘉次さんと梅澤裕さんの汚名を晴らそうとする上原正稔という作家を弾圧している姿を深く憂慮するものである。
 戦後、沖縄の新聞の顔であり、声であった豊平良顕、I弁護士秀意のお二人がご存命ならば「今の新聞は大政翼賛の下のぼくらの新聞よりヒドい。赤松さんと梅澤さんに直ちに謝罪して、やり直せ」と一喝することは目に見えている。≫


 上原氏の応援団は、裁判終了後、護国神社の会議室に移動し上原氏と徳永弁護士による裁判経過の説明を受けた。説明の後の活発な質疑応答が、応援団のこの訴訟に対する意識の高さを物語っていた。


■裁判の争点
 上原氏の「パンドラの箱を開ける時」の連載は07年5月26日に始まり、第1章は6月16日に終わった。当初、提訴されるなどとは予想だにしていなかったR紙は、続く第2章は翌週の6月19日から始まる旨の上原氏の掲載予定に合意をしていた。


 上原氏は、16日には19日から掲載予定の原稿を担当者のM記者に既に提出済みであった。その時、原稿を読んだM記者は、「よく出来ていて興味深いですね」と、上機嫌で読後の感想を述べた。M記者はその直後、土、日と週末を利用し上京しているが、不可解なことに、東京から帰社するや上原氏に対する態度を豹変させることになる。


 土、日を利用してM記者は東京で一体誰と会い、誰に何を入れ知恵され、態度を一変させたのか。東京にて何者かと面談したM記者は帰社後、直ちに上原氏を電話で呼びつけ「原稿は社の方針と違う」という一方的理由で掲載拒否を言い渡すことになる。
 掲載予定日の前日の6月18日、呼び出された上原氏がR紙に行くと、待ち受けていたM記者に5階へ連行される。


 5階の会議室では、待機していた別の3名の記者に取り囲まれるように着席させられ、およそ1時間に及ぶ上原氏が言うところの「集団リンチ」を上原氏は4人の記者から受けることになる。M記者は上京前に原稿を読んだときとは別人のような不機嫌な顔で原稿を差し出し「これはストップする」と一方的に上原氏に通告した。理由を問いただすと、「R紙の方針に反する」というのだ。後になって上原氏が「R紙の方針に反する」という理由は「言論封殺である」と訴状に記すと、R紙側は前言を翻し原稿の中身が「(96年の)沖縄戦ショウダウンの中身と同じだから」と、理由を変更している。つまり「社の方針で掲載拒否した」のであれば新聞社としては致命的ともいえる言論封殺を自ら認めることになるのを自覚したのだろう。そこで急遽「同じ内容の原稿なので掲載拒否した」と編集上の問題に矮小化したのである。


■担当記者が豹変した訳
 「慶良間で何が起きたか」の原稿を読んで「よく出来ていますね。興味深いです」と読後感を述べた担当記者が、僅か2日の東京出張から帰社すると同時に掲載拒否を一方的に宣告した理由は、その年2007年の社会的背景を知る者なら容易に想像できる。


 当時、大江健三郎、岩波書店を被告とする「沖縄集団自決訴訟」が係争中であり、被告である岩波書店がR紙に連載中の「パンドラの箱が開く時」に注目していたとしても想像に難くはない。


 特に19日から始まる第2章「慶良間で何が起きたか」については事前に紙面で予告もされており、当該裁判の当事者でもない筆者が興味を持つくらいだから裁判の当事者である岩波書店が、その内容に関心を示さない方が不自然だとも言うことができる。


 あくまで筆者の推測ではあるが、岩波書店側がR紙の上原氏の担当記者に接触し、事前に第2章「慶良間で何がおきたか」の内容を知るように工作したとしても何ら不思議ではない。 「慶良間で何が起きたか」には係争中の「集団自決訴訟」の核心とも言える「慶良間の集団自決」における「軍命の有無」についての記述があると思われるからだ。


 岩波書店が担当のM記者を週末を利用して東京に招聘し上原氏の原稿内容を事前に知ることが出来たとしたらどのように行動するか。筆者の推測が正しいのを裏付けるようにM記者は東京から帰社後態度を一変し、上原氏の原稿の掲載拒否を一方的に通告しているではないか。


 M記者は上原氏の原稿を拒否した「功績」が認められたのか、その後R紙の編集委員に出世し、さらにその直後岩波書店から自著を出版するという手土産を持って沖縄国際大学教授に就任している。最近左翼批判の著書を発刊したため理不尽にも沖縄国際大学講師の職を辞任に追い込まれた(本人の談)惠隆之介氏によると、沖縄国際大学教授の年収は約1000万円にも及び琉球大学教授でも沖国大への移籍を望む教授が多いという。


 連載中の上原氏の「パンドラの箱が開く時」を唐突に掲載拒否した担当記者の暴挙も、R紙にとってはイデオロギーを守るための賞賛すべき功績であったようである。原告の上原氏は現在でも、あくまでもR紙の「言論封殺」を主張しているのに対し、被告のR紙は「同じ内容の原稿なので掲載拒否した」と編集・技術上の問題に摩り替え、別の土俵へと逃げ込もうと必死なのが現状である。


■R紙が社の詭弁を覆す証拠の数々
 さて、上原氏の原稿が掲載拒否された2007年の沖縄マスコミ界の状況を再度振り返ってみる。その年の3月、文科省が高校歴史教科書の「沖縄戦の集団自決は軍の命令」という従来の記述を削除せよと検定意見が出た。R紙を筆頭に沖縄メディアは一斉にこれに反発し「検定意見の撤回を求める」大キャンペーンを張った。


 そしてその年の9月には「11万人集会」にマスコミ指導でなだれ込んでいったことは記憶に新しい。原告側は、R紙が「社の方針に反する」という理由で掲載拒否した事実を立証すべく、当時R紙に掲載された社説、コラム、識者の論等数多くの証拠物件を既に提出済みではある。その中から数例抜粋しただけでも次のようになる。


 1、 軍命は無かったと言っている 金城武徳氏の証言は載せない
 2、 金城重明氏が、軍命は聞いていない、手榴弾は自分も友人らも貰っていない事を裁判で証言したことを隠蔽
 3、 大阪地裁勝訴の報告集会で、安仁屋政昭氏がこの勝利に、R紙、O紙の多大な貢献があったと発言、満場も喝采をうける
 4、 大阪高裁承認尋問の模擬裁判の会場の取材に行った世界日報敷田記者は、「貴方の社の方針とこちらは違いますから」と主催者から退場させられたが、R紙は取材許可された
 5、 沖縄県の41市町村議会で教科書検定の取消と「軍命」の掲載を求める決議がR紙・O紙の命令・強制・関与・誘導によって行われた
 6、 2007年の高校の歴史教科書問題から2011年の八重山地区教科書採択問題までのR紙の報道は、集団自決は軍の強制と強い関与によって引き起こされたという論調と証言のみを掲載。軍命は、無かったという証言や識者の論調は一度も掲載していない。上原正稔氏が集団自決に軍命は無かったことを書いた原稿を掲載しなかったのは、R紙の明らかな方針であり、同じ文章をもちいたからという反論は、後から取り繕った真っ赤な嘘である。


 詳細は省略するが原告側は合計354点に及ぶ膨大な数の証拠物件を提出してあるが、これら354点の記事及び社説で、集団自決に軍の強制や強い関与があったと記述しているのに対し、集団自決には軍命が無かったとする記事や社説は皆無である。これを見ても、掲載拒否は、同じ文章をいんようしたたからという論拠は破綻しており、軍命があったとするもの以外は掲載しないというR紙の方針であることは明白である。


■決定的証拠
 だが、これら膨大な証拠物件が無駄になるほど致命的かつ決定的な証拠物件が、13日の第6回口頭弁論の法廷に提出された。被告側は掲載拒否の理由として「同じ引用」を主張しているが、掲載拒否を4ヶ月間続け、水面下では上原氏とR紙が再開に関し、すったもんだのバトルの末10月になって連載を再開したのだが、実はその再開された連載記事の中には以前と同じ引用文が含まれていたのである。


 再開後に掲載された記事そのものがR紙の反論を破綻に追い込んでいるのはいかにも皮肉である。つまりR紙は同じ引用は掲載拒否すると主張しながら、再開された原稿に同じ内容の引用があってもこれは平気で掲載しているのである。実は上原氏は6月に掲載拒否される以前にも同じ引用をR紙に掲載しており、同じ引用を使用することにより問題の焦点を絞っていくのが自分の著述スタイルであると明記しているのだ。従って掲載拒否される以前の第12話まではR紙の編集委員からは一切文句は出ていない。


 これは何を物語るのか。R紙の報道姿勢は、上原氏原稿が「慶良間の集団自決」の真相に触れない限り、掲載に問題はないということであり、R紙が「慶良間の集団自決」の真相を覆い隠そうとしていることが証明されるのだ。つまり原告R紙がどうしても掲載拒否したかったのは「慶良間で何があったか」の部分の「軍命はなかった」と明記した原稿だったのである。


 R紙にとって引用の重複などは問題ではなく、「慶良間に何があったのか」という原稿そのものを封殺したかったのである。そして13日の口頭弁論でわかったことは、被告側は上原氏と執筆依頼の合意が成立したとき、「毎回新しい資料に基づいて原稿を書く」と合意しており、以前に使用した資料を再度引用するのは契約違反と言い出していることである。


 勿論上原氏はそんな契約など取り交わした事実はないない。そもそもノンフィクションの分野で沖縄戦を掘り下げている上原氏の著述の手法は米公文書館より入手の資料や、実際に足で取材した証言などを繰り返し引用し、その積み重ねの中から歴史の真実を解き明かそうとするものであり、創作作家のように自分の想像力で書き上げるものとは似て非なることは言うまでもない。


 従って新しい検証の光を当てるため過去に引用した資料を再度引用し再検証することが、上原氏の著述スタイルであるため、R紙が主張するように過去に引用した資料を引用せずに沖縄戦を記述することに合意するはずはないのである。


 R紙のでたらめな主張は、例えて言えば過去の判例は一切引用せずに法廷で論戦をせよ、と弁護士に強要するようなものである。弁護士が自分の論拠を立証するたびに自分で新しい判例を作って引用などしたら弁護士として失格なのは論を待たないのと同じことである。上原氏はR紙の連載に当たって過去の資料を引用すると同時に当然のことながら新発掘の資料も駆使して論述している。資料の使用に関して、上原氏は次のように述べている。


 「ここで強調したいのは新資料だけでなく忘れられた資料や既に刊行された文献を使わなければ物事の真相や人間の真実にはたどり着けない、ということだ・・・全13話から成る「パンドラの箱を開ける時」のほかの物語でも新資料を基にした大なり小なり過去に発表したものからも引用して「人間の真実」に迫るというぼくの著述スタイルを貫いているが、第12話まではR紙の編集委員からは一切文句は出ていない。
 これは何を物語るのか。すなわち「慶良間の集団自決」の真相に触れない限り、OKだということであり、R紙が「慶良間の集団自決」の真相を覆い隠そうとしていることが証明されるのだ。事実、第13話「そして人生は続く」の最終稿(181回目)で、赤松さんと梅澤さんは集団自決を命じておらず、それは援護法の適用外の住民が援護金を貰うために嘘の報告を出し、そのために赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしたのだ、という旨の原稿を出したら、R紙はその最終稿をボツにするという前代未聞の暴挙に出たことで裏付けられる。」


■星雅彦氏が原告側証人に
 本裁判には県文化協会会長で『うらそえ文藝』の編集長でもある星雅彦氏が原告側証人として証言台に立つ予定である。


 星氏は沖縄知識人としては誰よりも早い時期に県の依頼を受け、慶良間の集団自決の現地取材行った人物であるが、星氏自身もR紙に「慶良間島の集団自決」につい原稿依頼された「軍の命令はなかった」という趣旨の原稿を送ったところ上原氏と同様に掲載拒否された経験があるという。県史の編纂にも参画した経験のある沖縄の代表的知識人星雅彦氏が証言台に立つことにより「パンドラの箱掲載拒否訴訟」もいよいよ大詰めに近づく。


「付記」裁判の原告である上原正稔氏自身が、R紙に掲載拒否された「慶良間で何が起きた」と題する幻の原稿を中心に今回R紙を提訴した心情を新たに纏めて近々本紙に寄稿の予定である。読者の皆様ご期待下さい。

 

2012年

1月

31日

ドキュメンタリー作家上原正稔の挑戦!  R紙の言論封殺との戦い 江崎 孝

 来る2月24日(火)、「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第五回公判が那覇地裁で行われる。


 この訴訟はドキュメンタリ作家上原正稔氏が、R紙の「言論封殺」を訴えるという前代未聞の裁判であるにも関わらず、これを知る県民はほとんどいない。沖縄の2大紙、R紙とО紙が、自分たちにとって「不都合な真実」は、決して報道することはないからである。


■上原氏怒りの記者会見■
 ちょうど一年前の1月31日。県庁記者会見室でドキュメンタリー作家上原正稔氏が記者会見を行った。その日の午前中に、上原氏はR紙に対する損害賠償訴訟を那覇地裁に起こし、それを受けての会見であった。代理人の徳永信一弁護士が訴訟の概略を説明した後、マイクに向かった上原氏は、開口一番沖縄戦時に慶良間島で戦隊長を務めた赤松嘉次、梅沢裕両氏に対して「大変なご迷惑を掛けた。ごめんなさい。許してください。そして同時にありがとうと言いたい」と侘びの言葉を述べ、両隊長による「集団自決の命令がなかったことは火を見るより明らかだ」、「真実を伝えるのがマスコミの使命だ」と訴えた。


 さらに、会場の記者団に向かい「R紙の記者は来ているか」と問いかけた。若手の記者が「はい、来ています」と挙手で答えると、上原氏はその記者に向かって「君たち新聞記者は、都合の悪いことは報道しないが、この裁判で君の会社が訴えられたのだよ!」と一喝し、「これを明日の記事にしなかったら新聞社の恥だよ」と釘を刺した。気の毒にも、まだ若いR紙の記者は、上原氏の気迫に押されたのか「ハイ」のひと言だけで返す言葉はなかった。上原氏は、2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)で、異論を封殺するR紙を激しく糾弾したが、R紙はこれに反論どころか、一切これを報道せず黙殺で通したことをR紙の記者に皮肉ったわけだ。


■『うらそえ文藝』での告発■
 沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』で上原氏は、県文化協会会長の星雅彦氏との対談で自分がR紙から受けたあからさまな言論封殺について詳しく話していた。少し長くなるが上原氏がR紙を訴えた経緯を知る上で参考になるので、関連部分を抜粋引用する。


 ≪星: そうですね。現在でもある意味では統制されているわけですからね。
 上原: もう完全に右も左も統制です。僕はR紙のM記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。
 星: 社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。
 上原: 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。
 星: 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。
 上原: いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これはR紙の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。≫(2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)


 原告上原氏の挑発が効いたわけでもないだろうが、被告のR紙は記者会見の翌日2月1日の紙面で、盟友のО紙より小さなベタ記事ながら次のように報じた。


 ≪「連載掲載拒否」本紙を提訴
 表現の自由を侵害されたなどとして、那覇市のドキュメソタリー作家、上原正稔さん(68)が1月31日、R紙を相手に慰謝料など約1千万円の損害賠償を求める訴訟を那覇地裁に起こした。
 2007年5月からR紙タ刊で連載された「パンドラの箱を開く時」をめぐり、R紙から途中の原稿の掲載を拒否され、表現の自由侵害などで精神的苦痛を被ったと主張している。
 R紙は「連載を一方的に止めた事実はない。従って『表現の自由の侵害』には当たらないと認識している」としている。(R紙2011年2月1日)≫


 徳永弁護士によると、裁判の要点はこうだ。
 上原氏がR紙に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」の、慶良間の集団自決問題の真相に触れる部分が、「社の方針に相違する」との理由で掲載日の直前になって突然中断に追い込まれ、大幅な原稿の改変を余儀なくされた。4カ月後に執筆を再開したが、最終章の原稿の掲載を拒否され、未完のまま終了した。徳永信一氏は「R紙が、原稿の受け取りを拒否し連載を打ち切ったのは、契約違反である。事実に基づく真相の探求を封じたことは個入の表現の場を一方的に奪ったものであり、公正で不偏不党な報道という社是に背反し編集権を逸脱する」と述べた。


 裁判の名目は「損害賠償の請求」と、民事訴訟では良くある訴因だが、裁判の根底に大きな争点が隠れていることは被告のR紙が一番承知している。それは日頃言論の自由を標榜する新聞社としては最も恥ずべき行為とされる「言論封殺」をR紙自らが行った事に対する訴訟ということだ。そして新聞社による「言論封殺」の裏には、沖縄戦で長年論議されてきた「集団自決における軍命の有無」が最大の争点として潜んでいるであることを、原告、被告の両陣営が強く意識していることは言うまでもない。


 沖縄戦記を研究テーマにするドキュメンタリー作家上原氏とR紙の間に起きた裁判沙汰を振り返ってみる。両者の間に一体何があったのか。


■2007年、沖縄のメディアは集団発狂した■
 ここで時間を5年前の2007年に巻き戻してみる。この訴訟の本質を見極めるためには、上原氏の原稿に何が書かれていたかという点と、もう一つ重要な点は、その原稿が掲載拒否された2007年5月の沖縄の社会的時代背景である。


 平成19年(2007年)3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見で、沖縄慶良間諸島でおきた集団自決に関し「軍の命令によるもの」という従来の記述を削除するよう求めた。 地元2紙は連日、「集団自決」に関する特集を組み検定意見を撤回することを求めるキャンペーンを大々的に張った。そしてその年は9月20日に行われた左翼勢力主催の「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会(11万人集会)」へと狂気のように雪崩れ込んで行った年である。


 各市民団体、労働団体が抗議声明が連日の紙面を飾る騒然とした状況の中、私はドキュメンタリー作家の上原正捻氏がR紙の夕刊に連載していた沖縄戦記「パンドラの箱を開ける時」を深い興味を持って愛読していた。


 というのは実証的戦記を得意とする上原氏が当時話題沸騰であった集団自決の「軍命論争」に関し、どのように記述するかが関心の的だったからだ。上原氏とは面識はなかったが、従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題にすり替える手法をとらず、沖縄戦の真実の物語を追及している異色の沖縄戦研究者として関心を持っていた。上原氏が始めた1フィート運動を取り上げた沖縄テレビ制作『むかし むかし この島で』は、第14回FNSドキャメンタリー大賞ノミネート作品となり、沖縄テレビのサイトでは、上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかを垣間見ることができた。 これも上原氏の「パンドラの箱を開ける時」に興味を持った一因であった。  http://www.fujitv.co.jp/b hp/fnsaward/14th/05-330.html


 当時私と同じように上原氏の「パンドラの箱を開ける時」の連載に注目している人物がいた。産経新聞那覇支局長をしていた小山氏のことだ。私は小山さんのブログを愛読していおり、6月16日のブログに第2話「慶良間で何がおきたか」が20日の夕刊から始まり、慶良間の集団自決がテーマになることが書かれていた。そこには上原氏は、「圧力に屈することなく執筆する」と話していたと記されていた。私が長年関心を持っていた集団自決の軍命論争の核心が愈々上原氏の筆により語られる、と期待に胸が膨らんだのを記憶している。

■パンドラの箱は閉じられた■
 待ちに待った5月20日、R紙夕刊の紙面を隅から隅まで探したが「パンドラの箱を開ける時」は、何処にも掲載されていなかった。通常、何らかの理由で連載記事が予定日に掲載されない場合、執筆者か掲載紙の方から、休載の理由について断りがあるもの。ところが、この予期せぬ休載については、上原氏はおろかR紙側からも一切何の説明もなかった。突然の休載に愛読者として一抹の不安が胸をよぎった。言論封殺ではないかという不安だ。 漫画家の小林よしのり氏が、沖縄の新聞のことを「異論を許さぬ全体主義」だと皮肉っていたことが現実のものとなって目の前に現れた、と考えた。R紙に電話を入れて掲載中止の理由を問い質した。だが、最初に対応したR紙の記者は、連載記事が掲載中止になっている事実さえ知らない様子だった。「自分の新聞のことも見ていないのか」と、言われて連載特集がが掲載されていないことを確認した後、電話は編集部に回されたが、その時「上原さん、原稿が間に合わなかったのかな」という記者の独り言が聞こえた。上原氏の記事の突然の中止は記者にも知らされずに急遽「言論封殺」が行われたものと直感した。その後電話に出た編集部の担当記者も動揺を隠せない様子で「調整中です」を連発するばかりで、納得できる応答は出来なかった。その時のやりとりを、当時から書いていた政治ブログ「狼魔人日記」に「沖縄のマスコミは大政翼賛会か」というタイトルで書き、読者の支持を受けた。 翌日のブログには「R紙は報道機関としてのプライドをかなぐり捨て、連載中の記事を『削除』するという禁じ手を使ったことになる。自分の意見と異なるという非常に分かりやすい理由で」と書き、「沖縄の言論空間は、いよいよ異様な様相を呈してきたようだ。サヨクの方々が常用する『戦前のような言論弾圧』がメディア主導で今正に沖縄で行われている。」と続けた。このR紙による唐突ともいえる「休載」に対し、私のブログ「狼魔人日記」の読者の反響は、大きなものだった。「R紙に抗議します」というタイトルで「R紙の言論封殺が今日で4日目です」「…今日で7日目です」と定期的にエントリーして抗議の意を表した。


■画龍点睛を欠く連載の再開■
 それから四カ月が経過した10月16日、「パンドラの箱を開ける時」が突然再開された。10月19日付のブログで書いたことを引用する。


 《10月16日。 二回目の「教科書検定意見撤回要請団」が上京し、沖縄中を巻き込んだ「集団自決」に関する大フィーバーも一段落が着いた。地元2紙の紙面にも一時のような「新証言者登場」といった刺激的な記事も殆ど見なくなった。その静寂の合間をつくように、その日(16日)のR紙夕刊に、4カ月の長期にわたって中止されていた「沖縄戦の記録」がソッと再開された。まるで一目をはばかるように。 何の予告もなく。(略)R紙側の突然の連載中止であるにも関わらず、新聞社側からは連載中止の知らせも、4カ月後の突然の再開の知らせも読者に対しては一言の説明もなかった。今後、R紙は「説明責任」で他人を責めることは出来ない。 結局、4カ月前に電話で問い合わせた答えの通りの長い「調整中」を、筆者の上原さんの「長い夏休み」としてゴリ押ししたのだろう。げに恐ろしきは新聞社の「調整」。これを別の名で言うと「言論封殺」と呼ぶ。長い「調整」の結果、内容も「調整」されている模様。
 事前の予告では次は「慶良間で何が起こったか」を明らかにするとしており、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだったが、再開した第2話のタイトルは「軍政府チームは何をしたか」と変更されているではないか。「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については触れていない。》(「狼魔人日記」 2007年10月19日)


■R紙の言論封殺■
 不自然な休載と同じく不自然な連載再開だった。
 R紙が上原氏に対して言論封殺を行った、という疑念は確信に変わった。私が一読者として感じたことはR紙の読者の誰もが感じたことだと考えた。R紙が言論封殺した上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、R紙を動揺させるどんな内容が書かれていたのか。だが、地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。


 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。後にわかったことだが、R紙に封殺された原稿には、上原氏が慶良間島の実地検証で得た「軍命はなかった」という論考が赤裸々に綴られていた。


■月刊誌『WILL』がR紙の告発記事掲載■
 上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。私は当時の沖縄メディアの異様な有り様を同時進行でブログに書き続けた。


 それが偶然雑誌社の目に留まり「沖縄紙の言論封殺」について原稿を依頼され、月刊誌『W ill』に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで掲載された。本文と重複する部分も有るが、有力言論誌が沖縄メディアの異常性を告発したという意味で注目されるので関連部分を抜粋引用する。


 ≪…平成19年6月19日は、R紙の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたという。
 「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが〝民意〟を煽っている最もホットなテーマのはずだった。言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。
 だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。≫(『WILL』2008年8月増刊号)


■竜頭蛇尾の最終回■
 上原氏の「長い夏休み」が終わり休載中の記事が再開されたとき、私はR紙の言論封殺を直感的に感じながらも、執筆者の上原氏に対して一種の失望感を感じたことを記憶している。 ひと言で言えば「上原正稔よ、お前もか!」という心境だった。


 その年2007年は新聞に登場する識者と言われる人達の「集団自決」についての論評は一斉に横並びで、例外なく「軍命があった」の大合唱だった。すくなくとも私の知る限り、「軍命」を否定する識者の論文は見たことがなかった。そんな風潮の中で「右も左も関係ない、反戦平和も関係ない」と「豪語」していた上原までもが、R紙の言論封殺に唯々諾々と従ったと考えたからだ。一読者であり上原氏とは面識のなかった私は、後に知ることになる上原さんとR紙との掲載拒否についての壮絶なバトルを知るよしもなかったのである。 従って肝心な部分で何の断りもなく四ヶ月も休載しておきながら白々しく「長期休暇」としか言い訳の出来ない上原氏に、やはり「全体主義の島」では実証的戦記を得意とする上原氏でも新聞の論調には迎合せざるを得ないのか、と落胆したのだ。


 それでも、肝心の「慶良間で何が起きたか」を欠落したままでは画竜点睛を欠くと考え、最終回までには慶良間の記述に戻るだろうと失望しながらも淡い期待を抱きつつ、2008年の連載記事の最終回を迎えることになった。


 「第13話 最終章そして人生は続く」と題する最終回は、「慶良間で何が起きたか」についての記述をフラッシュバックするどころか、本題とは外れる上原氏が始めた1フィート運動の経緯について紙面の大半を使っていた。


 これでは「パンドラの箱を開ける時」というタイトルからしたら、まさに竜頭蛇尾の最終回であた。長期連載戦記「パンドラの箱が開くとき」は、皮肉にも箱のふたを閉じたまま最終回を迎えることになったのだ。


■読者を敵に回したR紙■
 「慶良間で何が起きたか」の記述を欠落したまま終わるのでは、期待して最後まで読み続けた読者を裏切ったことになる。読者はR紙によって「知る権利」を奪われたことになるのだ。


 その後、上原氏がR紙の言論封殺に対し提訴することを知った一読者としての偽らざる心境は、上原氏がR紙を相手取って起こした「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は、上原とR紙の間の損害賠償の訴訟ではなく、R紙が自己のイデオロギーのため読者の「知る権利」を封殺したということになる。


 つまりこの訴訟は、実質的にはR紙が全読者を敵に回した「言論封殺」訴訟ということが出来る。(宜野湾市、ezaki0222@.ne.jp)