2013年

1月

07日

クガドゥンのことなど㊦ 尖閣諸島文献資料編纂会 国吉 まこも

 ③古賀辰四郎の死とその後
 尖閣諸島におけるカツオ漁とカツオ節の製造は軌道に乗り、その後、年々利益を増していった。現在テレビ新聞メディア等で古賀村と称され、たびたび紹介される写真はこの時期―具体的には明治41(1908)年に写されたものである。カツオ漁を経営の軸に据えると共に、古賀は珊瑚漁業や鳥糞の採掘業を試みているが、これらは成功していない。また大正3(1914)年に古賀が県知事に提出した報告ではカツオ船を新造すると共に、名蔵湾での真珠養殖を開始したとあるが、戦前の真珠養殖の記録に古賀の名は見受けられず、御木本の名が残るのみである。ともあれ、時代が大正期に変わっても古賀は意欲的であった。


 古賀は大正7(1918)年8月28日に死亡している。大正期のその時期の新聞が現存していないため、古賀の死因や葬儀の様子等は不明だが、今後当時の琉球新報等が発見されたならば、古賀の地位から考えて詳しく報じられた様が窺えると思う。海産物商としても、尖閣諸島開拓者としても、古賀は成功者として死んだ。


 さて、古賀の死後、事業は息子善次に継承される事となったが、子の善次の代になると尖閣諸島の開拓は停滞した。これまで開拓者や漁業者を通年滞在させていたものを、島でのカツオ漁期を冬季に限定する様になり、滞在期間も同じとし、滞在する者も漁業者のみになった。また善次は古賀の死の翌年の大正8(1919年)年に石垣島新川に土地を所得し、カツオ工場を設置している。尖閣諸島での事業を縮小し、カツオ節製造についても段階的に拠点を石垣島に移していったものと思われる。古賀の生前、新聞紙上をたびたび飾った、尖閣諸島の開拓や漁業について進捗を報じる記事はこうして途絶えた。


 兄与助は古賀より長生きしたようである。というのも古賀の死後の八重山の新聞や他の記録に善次と並んでその名が見られるからだ。一時期、何らかの理由で、与助は沖縄に滞在し、那覇店や八重山店の指導監督をする必要があったのかも知れない。


 尖閣諸島の開拓は停滞したが、その後も八重山古賀商店は順調に営業を続けた。従来通り海産物問屋を商いながら、島の住民相手の商売、農家に販売する肥料や農機具、セメント、はては「松の精」という名の滋養強壮飲料(広告文面から察するに朝鮮ニンジンエキスのようである)を取り扱っている。しかし、その後の昭和15(1940)年、戦中の物資統制の余波を受け、八重山店は解散する。那覇店は昭和19(1944)年の十・十空襲で焼け落ち、その後善次は妻花子の実家長野に疎開した。そうして沖縄の住民は全てを失い終戦をむかえた。


 戦後、元支店長の照屋清栄は南海商会という貿易会社を同店跡に立ち上げた。主な取扱品目は貝殻やカツオ節といった海産物である。看板は変わったが、戦前そのままの姿であった。復興期に入ってからは、善次も帰沖して同社の役員となっている。南海商会に永らく勤めた女性のお話によると、善次は良く同社を訪れ、物腰の優しい紳士で、なにより(肌の)色がとびきり白かった!そうである。こうして店は以前の姿に戻ったが、再び尖閣諸島に開拓の手が付けられる事はなかった。


 南海商会は現在存在しない。復帰頃まで営業を続けていたが、その後解散したと思われる。現在の730交差点の大川側にある駐車場付近が跡地である。同社が消え、古賀が沖縄で始めた事業は全てその終末をむかえた。


 地元八重山石垣島においてでも、戦前の古賀商店の姿を覚えている方は少ない(年齢的に考えて無理もないが)、尖閣諸島の開拓については言うまでもない。南海商会が古賀商店を継いでいた事を知る方もおそらく多くはないだろう。だが、「クガドゥン」という言葉は、人々の口から口へ語り継がれると共に、石垣市史を始めとする文献資料に記されている。


 在りし日の古賀辰四郎と古賀商店、そして尖閣諸島の開拓に携わった寄留人や地元八重山の人々、彼らの歴史を受け継いでいく上で、今後も語り継がれていって欲しい言葉である。


 尖閣諸島に残る古賀村跡、その代表的な魚釣島の石垣積みも、無人島と化した現在ではほぼ崩れ去ってしまっている。一方、乱獲されたアホウドリは近年になってその繁殖が確認され、年々個体数を増加させていっているそうである。


 沖縄大学では2013年1月13日、石垣島市健康福祉センターで移動市民大学開催する。当日、カメラマンの水島邦夫氏をむかえて、尖閣諸島のアホウドリ映像を上映する。島によみがえった、生きたアホウドリ映像をご覧頂ける機会をお見逃しなく、興味のある方は是非ご来場いただきたい。

2013年

1月

06日

クガドゥンのことなど㊥ 尖閣諸島文献資料編纂会 国吉 まこも

 しかし、この新たな産地でも沖縄本島地方と同様、ほどなく取り尽くしてしまったと思われる。明治期の統計書を見るに、夜光貝殻の海外輸出は明治22年を境に減少の一途を辿り、以降、商品として多額の利潤を生む産物には成り得ていない。産出量が減少していく中、貝殻に代わる新たな物産を見出さなければならなかった。

 

 現在国の天然記念物に指定されている、アホウドリという海鳥がいる。この鳥は海鳥の中でもひときわ大きく、その体は上質の羽毛に覆われている。この羽毛が羽毛布団原料として欧米で重用された点に、当時の古賀は目を付けたのだろう。貝殻の採取は鳥毛のそれへと代わった。ちょうどアホウドリが多数繁殖すると噂される無人島が遠く八重山の北の沖にあった。尖閣諸島である。


 前回述べた通り、尖閣諸島の開拓を県から任された事により、古賀は島を占有的―要するに、アホウドリ羽毛の産出地を独占する事が出来たわけである。


 当然そこでは大規模な乱獲が起きた。古賀が開拓を始めてからの4年間で島から採取されたアホウドリ羽毛はおよそ115トンにものぼった(羽のように軽いと比喩される羽毛が115トン!)。アホウドリの減少を危惧した古賀は明治33(1900)年東京から宮島幹之助を招聘し、黒岩恒と共に尖閣諸島の調査を依頼したが、かいなくアホウドリはその後減少の一途を辿る事になる。余談だが、この時の調査報告で「尖閣列島」という呼称が黒岩により命名された。


 アホウドリの羽毛はその後、別の海鳥であるアジサシ類の剥製採取に取って代わられた。また、明治政府が奨励した漁業の近代化政策によりカツオ漁とカツオ節製造が日本全土に普及していく中で、尖閣諸島でも明治38(1905)年カツオ漁と節製造が行われるようになり、これまでの貝殻や海鳥の乱獲といった短期で枯渇する危険が大きい対象から、回遊魚であるカツオを対象とすることで、島の産業は幾分安定的な構造に変化していった。


 尖閣諸島の開拓及び八重山古賀商店の経営を古賀が主導したのは間違いないが、全て一人でこなしたと考えるのは、現実的でない。実際は尖閣諸島や八重山店に、古賀に代わる代理人とでも言うべき人々がいた。これらの人々について簡単に述べておきたい。


 ①尾滝延太郎(出身地不詳):古賀の甥であり、八重山店支配人及び尖閣諸島の開拓初期を監督した。多才な人物だったのか、同諸島地図を製図している。


 ②伊澤弥喜太(熊本県出身):尖閣諸島領有以前より、地元沖縄漁夫と共に島で海産物を採取していた。古賀の占有以降は主に明治末期まで開拓監督を受け持ち、その後は八重山を離れ台湾へ渡った。


 ③堤米吉(福岡県出身):出身地の八女市忠見村は山内村の隣村にあたる。八重山店の支配人を担当したと思われる。古賀代理人として紅露(クゥールゥー)の専買を認可された記録が残る。八重山店があったとされる土地を大正2年頃まで所有している。


 ④古賀光蔵(福岡県出身か):古賀兄弟の末弟にあたると思われる。八重山の漁業調査書には古賀辰四郎所有カツオ船「漁蔵丸」とあり、カツオ漁の指導をしたかも知れない。明治44(1911)年八重山にて病没。


 ⑤嶺岸佐多之佐(宮城県出身):明治16年頃に来沖してのち、八重山役所の書記を永らく務めたのち、退官して八重山店の支配人となる。書記在任中からイカ曳きを趣味とし、先島新聞紙上では「ハイカラ」とあだ名された。大正13(1924)年台湾で病気療養中死亡。


 ⑥照屋清栄(沖縄県那覇出身):商業高校卒業後、那覇店に入店のち、八重山店に移る。嶺岸支配人病没後、後任の支配人となる。戦後は古賀商店を引き継ぐ形で南海商会を立ち上げ戦後の八重山郡における水産復興を担った。


 余談になるが、海産物を取り扱う関係上、古賀は糸満人とも懇意にしていた。ミーカガン(水中眼鏡)を発明した玉城保太郎、糸満出身の水産家で第3代糸満町長玉城五郎らとの交友が記録に残されている。(つづく)

2013年

1月

05日

クガドゥンのことなど㊤ 尖閣諸島文献資料編纂会 国吉 まこも

 来る2013年1月14日は「尖閣諸島開拓の日」である。この1月14日というのは明治28(1895)年、時の伊藤博文内閣によって領土編入が閣議決定された日にちなんで制定されたと聞く。


 尖閣諸島の開拓は主に、古賀辰四郎という一人の寄留商人によってなされた事業である。この古賀という人がいなかったら、我々が知る同島の歴史というのは違っていたものになっていたかも知れない。


 尖閣諸島の開拓者として知られる古賀辰四郎、どのような人物だったのか、簡単にではあるが、その足跡を辿ってみたい。

①寄留商人古賀辰四郎
 古賀辰四郎は安政3(1856)年、古賀門次郎の三男として、今の福岡県八女市にある山内という山間の村に生まれた。琉球処分がなされた明治12(1879)年4月、23才で来沖して以降、1918年、62歳で死没するまで、沖縄県の海産物や農産物を商う傍ら、尖閣諸島の開拓に力を注いだ。


 古賀が当時どのような経緯で沖縄に来る事になったかは定かでない。古賀の事を書いた資料等に実家は福岡の茶商であると記されているが、古賀が沖縄で扱った主たるものは海産物であり、現在のところ古賀が沖縄で茶を取引した記録は見当らない。ともかく、古賀は来沖した1879年に古賀商店という海産物問屋を開き、3年後の明治15(1882)年には石垣島の大川に同支店を開いた。この八重山の古賀商店、四カの古老の方にはいわゆるクガドゥンの名でなじみ深いかもしれない。


 戦前の新聞にある那覇の古賀商店の広告では「山に三」の商号が用いられている。この号は当初三兄弟で商売を開始したという事を意味するのだろうか。というのも、大阪では古賀の実兄、国太郎、与助らが大阪古賀商店を開いており、沖縄の店から送った海産物等の物品は大阪の店を通して、海外へと売り捌かれていた。この大阪店の商号も同じく「山に三」であり、八重山店の使った商号も、細部は若干異なるが「山に三」であった。つまり、戦前は、八重山古賀商店、那覇古賀商店、大阪古賀商店の3店舗が開かれ、八重山店が主に物品の仕入れを担当し、那覇店は物品の集積地かつ大阪店との連絡中継、大阪店は送られてきた海外への販路を担うという兄弟連携による仕組みが作り上げられていた。


 そうして沖縄から海外へと産物を輸出する事で、古賀は沖縄を代表する海産物商人として成長し、のちに無人島尖閣諸島の開拓と経営に乗り出すようになる。大阪の古賀商店に関する詳細は『古賀辰四郎と大阪古賀商店』望月雅彦著「南島史学第35号」に詳しい。興味のある方は市立図書館等でご覧頂きたいと思う。


 さて、尖閣諸島の開拓者として知られる古賀だが、実は古賀が最初に開拓を試みた無人島は尖閣諸島ではなく大東島であった。明治25(1892)年開拓の許可を得た古賀は蒸気船大有丸をチャーター、開拓資材等を積み込み、自ら糸満漁夫を率いて、おそらく意気揚々と島に向かったが、いざ現地に着いてみると、海は時化で荒れており、島の周囲は切り立った岸壁で艀船を寄せる事すら出来ない。何度も試みたものの結局上陸出来ず那覇に引き返す他はなかった。もし、この時古賀が大東島の開拓に成功していたなら、尖閣諸島の開拓は別の者によってなされていたのかもしれない。


 こうして大東島の開拓に失敗した古賀は、その後尖閣諸島の開拓を請願し、領土編入の翌1896年、沖縄県より開拓が認可され、30年の無償貸与を受ける事になった。島を占有的に開拓する権利が、古賀に与えられたわけである。

 

②古賀商店と尖閣諸島の開拓
 明治12(1879)年の来沖当初、古賀が目を付けた産物は、夜光貝、高瀬貝といった貝の貝殻であった事が、明治42(1909)年古賀が勲章を下賜される際に提出した資料に記されている。当時これらの貝殻は洋服の貝釦(ボタン)材料として欧米諸国で需要があり、沖縄はその主産地であった。古賀は貝殻を大量に買い集め、兄の大阪店に送り、大阪では神戸の外商を通して盛んに輸出した。沖縄本島周辺の貝殻の産出量はおそらくかなりの速度で減少していったものと思われる。新たな産地を開拓する必要に迫られた古賀が目を付けたのが、広大なサンゴ礁域を有する八重山諸島であり、そうして3年後の明治15(1882)年石垣島に新たな店が開かれる事となった。


 当時の八重山での貝殻採取について、明治18―19(1885―1886)年頃に八重山を実地踏査し、報告書をまとめあげた田代安定は、著書『八重山群島物産繁殖の目途』の中で、「―夜光貝殻、目今其採集頗ル盛ニテ多ク坂地ニ輸出セリ宜ク之レガ永続方法ヲ設クベキナリ―」と記しており、その頃夜光貝が採集されその多くが大阪(坂)に送られていたことがわかる。(つづく)

2012年

12月

01日

馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 最終囘 石井 望

第二囘の圖
第二囘の圖

 本年十月十八日、夕刊フジ(インターネットZAKZAK)に、保守陣營の勇將八木秀次氏の「宣傳(せんでん)工作に負けてゐる日本」と題する注目すべき論説が載った。八木氏は、チャイナ側が盜まれた失地恢復の物語を虚構して世界に訴へてをり、日本側としても領有を説得力をもって説明できる「物語」が必要だ、と述べる。我が意を得たり、それは琉球人の物語である。漢文史料の中にその痕跡が多々有ることを世に訴へたいと私は思った。

 

 ▼琉球人の物語
 連載第五囘まで使用した史料が全て清國の著述なので、何か狐につままれた氣がする人もあらう。チャイナ側も、チャイナ人が記録したからチャイナの物だと主張してゐる。
 尖閣の漢文史料はほとんどみな明國及び清國側の著述である。尖閣は日本と琉球との間の島ではなく、琉球と明清との間の島であった。だから弱小琉球にほとんど記録が無く、明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。

 

 しかし中身は全く逆である。琉球人が航路上で提供した情報を、明國人及び清國人が記録したのがこれら史料である。土着の案内者と、外から訪れた記録者。アメリカ・インディアンの提供情報を英語で記録したのと似た状況である。  
 但し釣魚列島の名は、東アジア共通の漢文名であって、命名者は不明である。アメリカ先住民の土地に英語で命名したのとは異なり、琉球人自身が漢文で命名してゐた可能性も高い。それが東アジアであたり前なのだ。

第一囘の圖
第一囘の圖

 ▼陳侃(ちんかん)陳侃の三喜
 尖閣を熟知するのは琉球人であった。その代表が、最古の記録、西暦1534年の「陳侃の三喜」である。明國の使節陳侃は、福州から出航前、未知の琉球への渡航を畏(おそ)れた。そこに琉球の貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだ。一喜である。次に琉球から迎接船が入港したので、先導船になると喜んだ。二喜である。次に迎接船が針路役及び水夫を派遣して陳侃と同船させ、琉球までの指導を申し出た。三喜である。明らかに琉球人のお蔭で尖閣を記録できたと分かる。琉球人のもてなしの心が記録から溢れてくる。以後の歴代記録でも常に琉球人に賴り切りだった痕跡が、そこかしこに見られる。我々は「陳侃三喜」を四字成語としてひろめて行きたいものだ。

 

 ▼先住民差別
 また陳侃の時及び以後の渡航では、琉球の船は低速であり、高速の使節船から落後したことが幾度も記録される。造船・操船の技術に劣る琉球人が尖閣を先に見つけた筈(はず)がないと、チャイナ側は主張する。確かに日本とチャイナとの間の小國琉球は、ある時期まで技術的に優位ではなかった。しかしそれを以て尖閣が我が物だと言ひ張るのは、技術的優位の西洋人が、土地を熟知する先住民を輕視(けいし)するのと同じである。現地の熟知度とは別問題であり、これもまた先住民差別である。

 

 記録と技術の二つの優位による差別を、日本は世界に知らしめるべきである。今後我々がこの差別と戰ってゆく物語は、彼らのやうな虚構ではない。眞に説得力ありと私は考へる。

 

 ▼琉球から日本へ
 明治日本の領有まで、尖閣前史の記録をたどれば、それは文化的琉球圏にして法的無主地の歴史である。チャイナ側の領有を感じさせる文化的な影すらも無い。さらに遡れば八重山文化圏だった可能性も高いが、惜しいことに記録が無い。發掘すれば古代八重山人の骨が出土するかも知れない。

 

 琉球文化圏を強調すると、日本領有の否定に繋がらないかと憂慮する人も有るかも知れない。しかし我々は、琉球が繩文時代からの長い歴史を經て、德川初期に日本に併合されて現在に至る事實を、否定する必要は全く無い。まして中華人民共和國人になりたいといふ沖繩人もほとんど存在しないだらう。沖繩人を先住民族に位置づけて、國家への歸屬を搖るがさんとする陰謀家に對しては、逆に先住民族自身の利益として尖閣を守り、他國の侵略と戰ふ意志を示す好機會である。

 

 本稿で使用した正かなづかひ及び正漢字の趣旨については、「正かなづかひの會」刊行の「かなづかひ」誌上に掲載してゐる。「國語を考へる國會議員懇談會」(國語ぎれん議聯)と協力する結社である。 (終)(長崎純心大准教授)

2012年

11月

30日

馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第五囘 石井 望

重纂福建通志(内閣文庫藏)
重纂福建通志(内閣文庫藏)

 「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」と同じ「釣魚臺(てうぎょだい)」(尖閣)の記述は、二年前の西暦1871年に出版された官製地理書「重纂(ぢゅうさん)福建通志」の「海防」の部の宜蘭(ぎらん)(葛瑪蘭(カバラン))の項目にも見える。宜蘭の項目に載ってゐることを根據(こんきょ)として、今のチャイナ側の公式文書では釣魚臺を宜蘭の所屬(しょぞく)とする。しかし、項目の劈頭(へきとう)に曰く、
 「北界三貂、東沿大海」。
 (北のかた三貂(さんてう)に界(かい)し、東のかた大海に沿(そ)ふ)
 と。これは宜蘭の界域を述べてゐる。三貂は領域の東北端の岬の地名であり、前述(連載第二囘)の泖鼻山(ぼうびさん)とほぼ同地である。「大海に沿ふ」とは、普通の地誌では「大海に至る」と書くところだが、宜蘭の本府(ほんぷ)が緩(ゆる)やかな入り江の内側に在り、直線で正東に至ると入り江の奧の海岸であるため、領域の東端にならない。海岸に沿って東北に進めば東端兼北端の三貂に至る(連載第二囘の圖(づ)を參照(さんせう))。それゆゑ「大海に沿ふ」といふ書き方になったのである。


 要するに宜蘭は東端も北端も三貂までであり、尖閣は更に東北に百七十キロメートル先に在る。明白に宜蘭の界外であって、チャイナ側主張は同一書の同一項目で否定される。
 「重纂福建通志」の三貂について、私は本年九月十五日午後十一時三十八分に臺灣(たいわん)外交部(外務省)主催の「釣魚臺短文コンテスト」に電子メール送信で應募(おうぼ)し、その文中で論及した。外交部からは九月二十一日午後六時十分に返信があり、「受け取った」とのことであった。後になって他の人がブログなどで同じ論旨に言及したやうだが、嬉しいことに私が先である。應募した原文は落選したが、今後別の媒體(ばいたい)で一字も改めずに公表するつもりである。


 ▼不正確な前時代の情報
 「重纂福建通志」については別の問題がある。卷四「疆域(きゃうゐき)」には宜蘭(葛瑪蘭)が載ってゐないのだ。「疆域」の卷は領域を明示するもので、他の卷の零碎の記述に較べて公式の領土記録である。載ってゐない原因は、宜蘭を領土に編入する以前の情報のまま改めなかったに過ぎない。しかし、かりに「重纂福建通志」を基準とするならば、清國領土に宜蘭が存在しなくなり、「宜蘭に釣魚臺が屬する」といふチャイナ側主張も存在すらし得ない。
 「山後の大洋の釣魚臺」の記述は、更に後の西暦1885年の成立史料「臺灣生熟番(せいじゅくばん)紀事」にも載ってゐる。しかしその上下文に見える各地行政區劃(くくわく)は、前述(連載第三囘)の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(西暦1875年)で改編されるより以前のままである。されば釣魚臺も、同じく西暦1875年より以前の國外情報として記録されたものに過ぎない。


 ▼あたり前の結論
 結局、馬英九總統(そうとう)は釣魚臺が國外だったと示す史料をみづから發表したことになる。早速私は駁論(ばくろん)を書いて前述(連載第一囘)のクリストフ記者に送った。しかし返事は、既に受附を締め切ったとのことだった。私としては折角なので大手英字新聞に掲載したいと思ふ。
 諸史料で常に國外情報として「釣魚臺」が記録されるのは、日本側に都合良い話ではなく、ただの必然である。清國の人々にとって統治外の花蓮も釣魚臺もほぼ未知の領域であった。未知の釣魚臺の僅有(きんいう)の情報を、未知の花蓮とともに末尾に附録する。あたり前である。それを斷章(だんしゃう)取義して西太平洋侵略を企てる人々に、我々は決して迎合してはならない。 (つづく)

2012年

11月

29日

馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第四囘 石井 望

全臺圖説(文海出版社「皇朝經世文續編」より)
全臺圖説(文海出版社「皇朝經世文續編」より)

 馬英九氏最愛の「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」の釣魚臺(尖閣)の前段には、中部の埔里(ほり)及び中部東路の花蓮の情勢を述べる。その文に曰く、
 「此時不即爲患者、各國互相觀望、不肯發端。久則必爲外人所據。心腹既爲所據、沿邊・海口交午相通、患有不可勝言者矣。」
 (この時即(すなは)ち患とならざるは、各國互ひに相ひ觀望し、端を發(はつ)するを肯(がへ)んぜざるなり。久しければ則ち必ず外人の據(よ)る所とならん。心腹既に據る所となれば、沿邊(えんぺん)・海口、交午に相通じ、患あげて言ふべからざる者有り)
 と。大意は下の通り。「奇來(きらい)(花蓮)及び埔里など中部に對して、列強各國は形勢を觀望し、兵端を開いてゐない。心腹(中部)が列強に占領されれば、沿邊(領土線)から東海岸まで交互に通じ合って害をなすだらう」と。沿邊の外として花蓮の情勢を述べるのだから、國外である。

 

 ▼同一史料で領土外
 「全臺圖説」は更に國内の記述部分でも、
 「將卑南以北各社、全行收隸版圖。」
 (卑南(ひなん)以北の各社をとりて、全行して版圖(はんと)に收隸(しうれい)せよ)
 との建議を述べる。卑南とは臺灣(たいわん)島の東南部である。その北の各社とは、花蓮の各村落を指す。領土編入の建議であるから、花蓮はまだ領土ではない。

 

 このやうに清國の統治は未だ臺灣全土に及ばず、奇來を含む東部中路は國外であったことが、馬英九氏の同一史料で明白である。そこに記載する釣魚臺(てうぎょだい)も、國外情報である。馬英九(ばえいきう)先生には大いに感謝せねばなるまい。
 史實(しじつ)も重要だが、それよりも重要なのは、釣魚臺を記録する史料自身が、花蓮を國外扱(あつか)ひで記載することである。だからこそ、同個所に附記される釣魚臺も國外扱ひと分かる。花蓮が國外であった史實そのものは補説に過ぎない。

 

 ▼馬英九史料は日本派兵の前年
 馬英九氏は「全臺圖説」を西暦1872年の成立とした。根據は著者の周懋琦(しうぼうき)が臺灣府知事となったのがこの年なるがゆゑだらう。しかし篇中に曰く、
 「現在六社之中多設立教堂」
 (現在六社のうちに多く教堂を設立す)
 と。六社とは、臺灣中部の埔里地域である。教堂とはキリスト教の教會堂である。埔里に多數の教會堂(長老派教會)が建てられたのは西暦1873年(平成十九年の張珣(ちゃうじゅん)氏・姚嘉音(えうかいん)氏・林文德の論文などによる)であるから、「全臺圖説」の成立はこの年以後である。

 

 また全篇の内容は、前述の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(連載第三囘)よりも前の地方官制に本づいて書かれてをり、西暦1875年より以前の著作と分かる。しかも前述のやうに兵端は開かれてゐないのだから、西暦1874年五月に日本が派兵するより以前である。
 更に篇中に「本年四月(陰暦)に外人が埔里で救災活動をしてゐる」と述べるので、成立の月度(げつど)は陽暦六月から十二月の間である。臺灣キリスト教史にとっても重要な記述だらう。

 

 以上により、成立年月は西暦1873年六月から十二月の間と推定できる。この時、花蓮はなほ清國の國外である。 (つづく)(長崎純心大准教授)

2012年

11月

28日

馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第三囘 石井 望

 長い歴史の中で、尖閣航路の渡航を主導してゐたのは常に琉球人であった。「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」に至る釣魚臺(てうぎょだい)(尖閣)情報も、琉球人が提供した可能性が極めて高い。清國人(しんこくじん)は使節として琉球に渡る際に情報を得て、それを地誌の編纂者が採用したと推測するのが最も自然である。


 そもそも尖閣の帆船航路は季節風を利用せねばならず、無人島で折り返すことはできない。西から來れば、必ず琉球まで進んで季節風の移ろひを待つ。尖閣を宜蘭領域の限界線として確認し、そのまま臺灣(たいわん)へと折り返すといふのは空想に過ぎない。


 ▼花蓮は領土外か
 チャイナ側主張の宜蘭(ぎらん)には、釣魚臺が屬(ぞく)してゐなかったこと前述(連載第二囘)の通りである。では釣魚臺とともに記載される花蓮(くわれん)は確かに國外なのか。念のため臺灣史の通説を概觀しておかう。


 清國は康煕二十二(西暦1683)年に臺灣島の西側から上陸して、今の臺南(たいなん)附近を占領し、臺灣島の西半分を侵略し始めた。十九世紀初頭には東側北部の宜蘭にまで領土をひろげたが、東側中部の花蓮は最も遲(おそ)くまで國外であった。


 明治七年(西暦1874年)五月に至り、日本の西郷從道(つぐみち)軍は東側南部の清國領外「牡丹社」地域に遠征した。高校教科書に「臺灣出兵」として載る事件である。清國領外であるから清國との戰鬪(せんとう)は無く、先住民との戰鬪が行なはれた。

 

 このとき清國が臺灣の東南部を「化外(くわがい)」即ち國外と位置づけたことが有名で、清國の文書「籌辦(ちうべん)夷務(いむ)始末」内の間接的言説中に見えるほか、羅惇融(らとんゆう)「中日兵事本末」などの野史(やし)に見える。化外の地は臺灣全土だと勘違ひされがちだが、主に東部だけである。日本の研究者の間では、化外であった史實(しじつ)について清國に贔屓(ひいき)する政治的論調が多いので注意を要する。

 

 出兵後、同年十月に日清兩國は條約を結び、日本はこれ以後臺灣の東南部を清國領土とすることを認めた。しかし清國はまだ實(じつ)効統治を始めたわけではなかった。

 

 焦った清國は、翌年(西暦1875年)に至り、東南部のみならず花蓮まで清國の行政區劃(くくわく)に編入することを決定した。そして「開山撫蕃(かいさんぶばん)」といふ武力侵攻を經て、ほぼ西暦1878年に花蓮の大部分を清國統治下に入れた。その最後の「カリャワン戰役(せんえき)」は、民族淨化の慘劇(さんげき)として近年の臺灣史研究の一焦點(せうてん)となってゐるらしい。多數(たすう)の先住民が殺され、殘虐な酷刑も執行された。

 

 「開山撫蕃」以前にも少數の清國人が花蓮に侵殖(しんしょく)してゐたが、違法とされてゐた。清國は臺灣に於ける國外入殖を禁じてをり、解禁したのは開山撫蕃と同じ西暦1875年である。 このやうに臺灣史の大事を概觀すれば、馬英九(ばえいきう)氏が「全臺圖説」の成立年とする西暦1872年には、花蓮が清國の國外だったことが容易に分かる。


 ▼未知の尖閣を防衞する中華思想
 釣魚臺は宜蘭に屬せず、花蓮も國外であった。しかし西暦1878年前後に花蓮が清國の有となった後も、釣魚臺まで併せて清國となったわけではない。釣魚臺は花蓮とともに記載されただけであって、花蓮に屬してゐたわけではない。


 その一證左(しょうさ)となるのが、「開山撫蕃」とともに釣魚臺を記述した史料である。清國の方濬頤(しゅんい)著「臺灣地勢番情(ちせいばんじゃう)紀略」に曰く、
 「鷄籠山陰有釣魚嶼者、舟可泊、是宜設防。」
 (鷄籠(けいろう)山陰に釣魚嶼(てうぎょしょ)なる者有り、舟泊(はく)すべし、これ宜(よろ)しく防を設くべし)
 と。陰とは北である。この著作は「開山撫蕃」即ち臺灣東部侵攻による領土編入の史事を概論する。

 

 その中で「防を設ける」とは、同じく侵攻して領土に編入することを指す。「宜しく設くべし」とは未來の空想である。されば西暦1875年の開山撫蕃の後にも、釣魚臺は領土に編入されてゐなかったことが分かる。しかも「釣魚臺なる者有り」といふのだから尖閣をほとんど知らない。

 

 知りもしないのに防衞を大言するのが中華思想であり、この種の大言は到る處(ところ)に見られる。「普天(ふてん)の下、王土にあらざるなし」といふ古語も有り、全世界の無主地は本來なら自國領土だと勘違ひしてゐる。

 

 そんな中華思想の基準は、聖徳太子時代からつづくユーラシア東半のインド文明圏諸國と決して相容れないし、況(いはん)や近代國際公法に於いてをや。日本は斷(だん)じてこの基準を受け容(い)れてはならない。(つづく)(長崎純心大准教授)

2012年

11月

27日

馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第二囘 石井 望

 「山後の大洋の釣魚臺」の記述は多くの史料に見えるもので、西暦1852年の官製地理書「葛瑪蘭廳志」にも見える。私は他と同じやうなものと思って注意しなかったのだが、馬英九總統の一件もあってこちらの原書もしらべてみた。


 するとこれまた何のことはない、釣魚臺(尖閣)は「蘭界外」といふ一段に記載され、蘭(宜蘭)の境外すなはち清國外に釣魚臺が在ったことを示してゐる。チャイナ側はこれまで釣魚臺が宜蘭に屬すると公式に主張してをり、その根據の一つがこの書なのだが、よくみると逆に主張を全否定する史料なのである。


 「蘭界外」の記述を見つけてから、念のためインターネットを檢索したところ、今年九月十日に臺灣の著名人・潘建志氏のブログ「BILLY・PAN的部落格」で既に發表されてゐた。私は第一發見者になり損ねたのだった。


 宜蘭(葛瑪蘭)の領域はどこからどこまでか。同じ「葛瑪蘭廳志」内の記述で確認して置かう。卷一「疆域」(領域)の段に曰く、
 「東北至泖鼻山、水程九十五里。……東南至蘇澳過山大南澳界、八十里。」
 (東北のかた泖鼻山に至る、水程九十五里なり。……東南のかた蘇澳より山を過ぎたる大南澳の界に至る、八十里なり)


 と。泖鼻山は宜蘭領域の東北端の岬である。蘇澳は宜蘭の東南端の臨海平原である。大南澳は平原から山を越えて更に最南端の村である。釣魚臺は宜蘭の東北方向170キロメートル先に在るから、明白に宜蘭の界外である。この記述は潘建志氏も既に引用してゐる。


 ▼未知の領土外情報の集まり
 「蘭界外」の一段には、山後(臺灣東部)の奇來(花蓮)を中心とする先住民の情報が集められてゐる。情報源は道光辛卯(西暦1831)年の福建人蔡某の報告及び、それ以前の地誌諸本の零碎記述である。地誌からの情報では、山後の先住民の一部が毎年「社餉」(貢物)を清國にもたらしたとする。蔡某は名前も記録されないから、山後の先住民の中で邪利を貪った民間通事(仲買人)か、もしくは通事を介して先住民と交易した社商(清國指定商人)の類だらう。假に社商だとしても、その情報源は矢張り通事であり、社商は直接先住民の中まで這入らない。


 念のため社餉の實際を粗覽しよう。古典とされる「裨海紀遊」などによれば、一部の先住民が狩獵で得た鹿などを、通事が不平等交易でしぼり取り、社餉として清國の社商に轉賣し、社商が地方政府に納めたといふ。清國側は税に類する貢物と位置づけるが、かりに貢物を定期的に納めたとしても、それは近隣の朝貢國と同じことに過ぎない。實際には先住民側にとっては民間通事との不平等交易であって、仲買を經て間接的に清國に轉賣されたのだから、貢でも朝でもない。朝貢國よりも更に疎遠である。しかも交易したのは先住民のうち所謂「化蕃」(貢納する先住民)に過ぎない。


 「葛瑪蘭廳志」の記録は、道光年間に至ってなほこの種の民間通事の情報に賴るほどだから、清國が山後を統治してゐなかったことをよく示す。されば未知の國外の情報を集めたのがこの一段なのである。


 ▼領土外情報の末尾に釣魚臺
 これら國外情報の末尾に、「重修臺灣縣志」といふ地誌から釣魚臺及び花蓮の記述が引用される。馬英九氏發見の史料とほぼ同文である。そして引用文の後に曰く、


 「竟有至其地、可知也。」
 (竟に其の地に至る有りと知るべきなり)


 と。「竟」は古義で「つひに」と訓ずるが、ここではチャイナ語習が混入して驚きを表はす語だらう。句意は「驚くべきことにその地に到達した人がゐると分かる」となる。到達をわざわざ述べるのだから、花蓮も釣魚臺も國内ではないとの認識を看て取ることができる。(つづく)(長崎純心大准教授)

「葛瑪蘭廳志」(成文出版社「中國方志叢書」より)
「葛瑪蘭廳志」(成文出版社「中國方志叢書」より)

2012年

11月

26日

馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第一囘 石井 望

 

 チャイナの尖閣奪取運動が猖獗(しゃうけつ)を極めてゐた本年九月十四日、臺灣(たいわん)各社報道によれば、馬英九總統(そうとう)は1872年(明治五年)の成立著作「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」(清・周懋琦(しうぼうき)著)の中から、「釣魚臺(てうぎょだい)」(今の尖閣諸島・魚釣島)の記述を發見(はつけん)したといふ。記述個所に曰く、


 「山後大洋有嶼。名釣魚臺。可泊巨舟十餘艘。崇爻山下可進三板船。」
 (山後の大洋に嶼(しま)あり、釣魚臺と名づけらる。巨舟十餘艘(よそう)を泊すべし。崇爻山(すうかうさん)の下は三板(さんぱん)船を進むべし)


 と。「山後」とは臺灣(たいわん)島の東半分である。崇爻は今の花蓮である。三板船は小船である。文意は、「臺灣東側の大海に島が有り、島名は釣魚臺といふ。大船十艘あまりが碇泊可能である。花蓮の海岸には小船を入れられる」となる。


 NYタイムズにも
 馬英九氏は釣魚臺を題材に博士論文を書いたほどのマニアで、漢文史料をめくってゐた時にこの記述に出逢ったといふ。早速ニュースは臺灣だけでなくチャイナのインターネットを馳せ巡った。數日後には臺灣外交部の公式ネットページにも、領有史料の一つとして掲載された。


 少し遲れてニューヨークタイムズ紙の著名記者、ニコラス・クリストフ氏のブログに臺灣の國際法學者邵漢儀氏の論文が掲載され、「全臺圖説」のこの記述も取り上げられた。クリストフ記者はチャイナ側の主張を支持してゐる。それに對し駐ニューヨーク日本領事館の川村總領事が反論を投稿したことは、ひろく報じられたのでご記憶だらうか。しかし川村氏は漢文史料に論及しなかった。


 日本領有の直前に
 この記述そのものは他史料にも屢見するので、私はまた同じものが一つ増えただけのことと思った。新發見といふのも疑はしく、誰かが以前に論及してゐた可能性もある。とは言へ史料が成立したといふ西暦1872年は、日本が尖閣を領有した西暦1895年から僅か二十三年前であり、國際法上で決定的な意味を持つかも知れない。よって念のため原書をしらべてみることにした。


 その結果、何のことはない、「全臺圖説」のこの個所は「奇來」(今の花蓮)の段の中で述べられてゐた。奇來は清國の領外であるから、釣魚臺も國外としての記載なのである。(つづく)(本連載は、十一月五日八重山日報記事への解説です。石井氏の希望で旧仮名使いにしてあります) (長崎純心大准教授)

2012年

8月

07日

尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り ④ 長崎純心大准教授 石井望

法的な意義は無い

 現代世界の法理としては、明の史料は元々無効であり、今次の新見解はあくまで文化的な意義を持つに過ぎない。ただ八重山人を始めとする日本人が文化面で自信を持って我が領土と呼ぶことは大いに必要である。文化面での自信に搖(ゆ)らぎが有るから北京(ぺきん)駐在(ちゅうざい)の日本大使の放言をゆるす隙(すき)が出るのである。自信を持つためには釣魚列島の漢文史料を多くの人がよむべきである。それには上述の拙著(せっちょ)「和訓淺解・尖閣釣魚列島漢文史料」を自薦(じせん)したい。本年三月、長崎純心大の刊行である。書中(しょちゅう)にはほかにも幾(いく)つか新見解を盛り込んだ。


 本稿で使用した正かなづかひ及(およ)び正漢字の趣旨(しゅし)については「正かなづかひの會」刊行の「かなづかひ」誌上に掲載してある。「國語を考(かんが)へる國會議員懇談會」(國語議聯)と協力する結社(けっしゃ)である。(終)

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 郭汝霖「石泉山房文集」(四庫全書存目叢書、荘厳文化公司)
 郭汝霖「石泉山房文集」赤嶼の前後文
 嘉靖四十年夏五月二十八日、始得開洋。行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。無風平浪、大魚出躍、船阻不行、顛頓播蕩、蓬扇損壞。舟人驚訝、若有水恠。如此三日、軍民慌甚、呼祝海神天妃求救。


 書き下し文
 嘉靖四十年夏五月二十八日に至り、始めて開洋するを得(え)たり。行(ゆ)きて閏五月初三日(しょさんにち)に至(いた)り、琉球の境に渉(わた)る、界地(かいち)は赤嶼(せきしょ)と名づけらる。風無く浪平らかにして、大魚(たいぎょ)出躍(しゅつやく)し、船阻(はば)まれて行かず、顛頓(てんとん)播蕩(はたう)し、篷扇(ほうせん)も損壞す。舟人驚訝し、水怪有るがごとし。かくの如(ごと)きこと三日、軍民慌てたること甚(はなは)だしく、海神(かいじん)・天妃(てんぴ)(媽祖)を呼祝(こしゅく)して救(すく)ひを求(もと)む。 

 

いしゐのぞむ
 長崎純心大学准教授。昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。
 平成13年、長崎綜合科学大学講師。21年より現職、担任講義は漢文学等。
 研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書「尖閣釣魚列島漢文史料」(長崎純心大学、24年)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会「中国研究論叢」11)、「尖閣領有権、漢文史料が語る真実」(産経「正論」23年3月)など。

2012年

8月

05日

尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り ③ 長崎純心大准教授 石井望

別解(べっかい)の可能性
 念のため別解が有り得るかどうか考察してみよう。「渉琉球境」とは、赤嶼(せきしょ)を通り過ぎた後にしばらく航行して姑米山(こべいさん)(久米島)との中間線あたりで琉球域即ち姑米山海域に進み入ったことを指し得ないだらうか。答へは、指し得ない。郭汝霖「重編使琉球録」の記述によれば、閏五月三日に赤嶼に至って後一日の風を受ければ姑米山が見える筈(はず)だが、無風状態で船が三日間止まって仕舞(しま)ったと述べる。姑米山に近づき得ないことを言った記述であって、姑米山の海域に進み入ったとする意識のまさしく相反である。そして閏五月六日の午刻(ごこく)に風が吹いて船は大いに進み、夕方には姑米山のやや東北の小姑米山(粟國島)(あぐにじま)附近に到達したと述べる。半日だけでそこまで到達できたわけは、この海域の西から東に向かって太くひろい黒潮が流れ、三日間止まった間に東に漂流してしまったが故である。漂流しても三日かかってまだ姑米山(久米島)に到達しないのだから、二島の中間線に到達したのはほぼ閏五月五日であって、閏五月三日のうちには不可能である。よって閏五月三日に渉った琉球境とは、中間線ではなく赤嶼(大正島)からであると分かる。


他史料との整合性
 他の諸史料では常に姑米山に至ってから琉球の領域内だとする中で、郭汝霖の記述だけは特殊(とくしゅ)に見える。これを整合するには、姑米山が界内(かいない)、赤嶼が界そのものだとするのが諸史料原文のままに素直な理解である。例として後の清の徐葆光「中山傳信録」(ちゅうざんでんしんろく)では姑米山を「琉球の西南方の界上の鎮山(ちんざん)なり」とする。先行研究は全てこの記述を以て姑米山が最西端(さいせいたん)だとしてきたが、今郭汝霖と併せみれば「界上」は界そのものでなく「界のほとり」と訓じ、即ち界附近の義である。鎮山とは風水で都城の背後に鎮坐(ちんざ)する主山(しゅさん)であるから、界附近の大きな島と理解すべきである。徐葆光は急に風水を持ち出したわけでなく、つとに郭汝霖が土納己島(渡名喜島)を風水の「案山」(あんざん)(中間の山)とするなどの前例を承(う)けたものである。


「中外の界」説の終焉(しゅうえん)近し
 以上で琉球の領域が赤嶼までだったことをお分かり頂(いただ)けた筈(はず)である。平面で見れば、琉球の領域が少々西に伸びただけのことである。しかし、たて軸(じく)で見れば郭汝霖の記述は重大な意義を持つ。赤嶼(せきしょ)を含む釣魚列島は、多くの史料のどこを探しても國家による領有の記述が無い。だから無主地なのである。このたびの新見解は、明治以後百年あまりの尖閣研究の中で初めて領有に言及する史料が登場したことになる。史料そのものはあたり前に存在してきたが、この記述は尖閣論議の中に初めて出現する。百パーセント無主地だとの認識の一角が崩(くづ)れたことになる。


 現在の我々が最も知りたいのは、この史料が日本側にとって(八重山人にとって)どうか、チャイナ側にとってどうかである。日本側にとっては赤嶼の東であれ西であれ明治になれば領有するので、あまり意味は無い。しかしチャイナ側にとっては衝撃(しょうげき)である。本稿前半に引いた清(しん)の汪楫は、赤嶼と姑米山との間で「中外の界」を述べ、他の清の尖閣航路史料でも同じ場所に「黒溝」(こくこう)の記述が有り、チャイナ側はそれを領土の分界線(ぶんかいせん)だとしつこい程に叫ぶ。しかし東沙山(とうささん)(馬祖島)までを領土とする汪楫本人が、はるかに尖閣の東の内外の界(かい)ひとつを以て領土分界とみなすはずがない。また同じ中外の界や黒溝の記録が釣魚列島のはるか西にも有ることを、かつて喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏(時の琉球大教授)が明らかにした。チャイナ側の立論(りつろん)はそこで潰(つい)えたのだが、西の界(かい)と溝(こう)とを全て無理やり赤嶼の東に存在するものとこじつけて延命(えんめい)をはかり、いつまでもやめようとしない。今次(こんじ)の新見解により、最も基本的な史料とされる郭汝霖使録の赤嶼が、チャイナ側から琉球側にころぶので、「中外の界」説のこじつけが更に難しくなる。(つづく)

2012年

8月

04日

尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り ② 長崎純心大准教授 石井望

琉球西端は姑米山と赤嶼の間か
 琉球西端は久米島までとして史料上ずっと確定したものに見えるのだが、一つだけそこに疑問符をつける史料が明の郭汝霖の「重編使琉球録」である。郭汝霖は福州から東に航行し、嘉靖(かせい)四十(西暦千五百六十一)年閏五月三日に赤嶼(せきしょ)に至った。そして、


 「初三日至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。」
 (初三日(しょさんにち)に赤嶼に至る。赤嶼とは、琉球を界(かい)する地方山なり)


 と記録する。尖閣研究で最も基本的な史料の一つである。姑米山(こべいさん)(久米島)の西の赤嶼(大正島)が琉球の分界(ぶんかい)の島だとの意であり、他史料とやや異(こと)なる記述である。但し姑米山の琉球域に向かって分界を成(な)す意に解すれば他史料と矛盾(むじゅん)しないかの如(ごと)くにも見える。即ち赤嶼と姑米山との間が分界となる。昭和四十五年以降の論議の中ではずっとこの解法が通行してきた。楊仲揆・井上清・奧原敏雄・呉天穎(ごてんえい)・尾崎重義・鞠德源(きくとくげん)・鄭海鱗(ていかいりん)諸氏及び人民日報など、概ねひとしく一致してゐる。ただ喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏だけは赤嶼そのものが界(かい)であるとの別解に言及するが、言及しただけでやめて仕舞って、結論では逆に赤嶼まで明(みん)の領土だとする。緑間榮氏は赤嶼のどちら側が界なのか不明確だとする。


 赤嶼如何と論じる以前に、琉球の分界の島なるものは、琉球といづれの國との分界なのか。原文はそれを書かない。無主地との分界だから書かないのである。昭和四十五年以降のチャイナ側の主張では、天朝中華にとって自明の領土はわざわざ書かないのだとする。時の國士舘大教授・奧原敏雄氏はそれを荒唐無稽(むけい)としりぞけた。大功績である。


西端は赤嶼だった
 では上述の郭汝霖の「界」(かい)の原意は赤嶼の東側なのか西側なのか。このたび私は初めてその解を定める記述を既知(きち)の史料中で見つけた。同じ郭汝霖の「石泉(せきせん)山房文集」卷七に「例を査(しら)べて祭を賜(たま)ひ、以て神功(しんこう)に報ゆるを乞(こ)ふ」と題する上奏文が載録してある。その中で上述の嘉靖(かせい)四十(西暦千五百六十一)年の琉球行に言及して曰く、


 「行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。」
 (行きて閏五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地(かいち)は赤嶼と名づけらる)


 と。琉球の境とは琉球の域内の義である。苦境・佳境・逆境・環境などの語で馴染(なじ)みの通り、「境」とは場所・領域を指す。「渉る」は「入る」とほぼ同じ意味である。「界地」とは分界(ぶんかい)の地である。全句は赤嶼が琉球の域内に進み入る分界の島だとの文意である。これにもとづいて見直せば、同じ郭汝霖の「重編使琉球録」の同日同地の記述も、赤嶼そのものが分界地となって、そこから琉球域内だとの意味になる。赤嶼と姑米山との間が分界だとするこれまでの解法は通じないことが分かる。


 赤嶼の東側は海中の急峻な崖で沖繩トラフに落ち込み、そこを黒潮が流れる。「石泉山房文集」でも上述「重編使琉球録」の「敬神」(けいしん)の個所でも、ともにその海域で大魚(たいぎょ)が出現したことを述べる。黒潮の特徴である。「この特徴が琉球域なのです」と琉球人が郭汝霖に告げたので郭は琉球域と書いたのだと推測すべきである。そしてそこへの入り口が赤嶼だと認識されたわけである。明人にとって既知(きち)の事柄でないため、一方で「赤嶼者」と解説し、一方で赤嶼の前に「名」の字を冠する。


界そのものは域外か
 では界地たる赤嶼そのものは琉球域内なのか域外なのか。それはまさしく域内でも域外でもなく、ただ界(かい)なのである。それが原文そのままの理解である。上述の喜舍場(きしゃば)氏の解が半分は正しい。但し界だと定(さだ)めたのは琉球の人々だったはずで、且つ界外は無主地(むしゅち)であるから、現代法に照らせば界そのものは琉球の領有である。野球やテニスなど多くの球技で界線そのものがセーフとなるのは何故か。線の外が隣(となり)の試合場でなく、ただの無効域だからであらう。


 赤嶼につけられた「者」(しゃ)「名」(めい)の字で分かる通り、この「界」は海を知らぬ郭汝霖個人の認識ではなく、海路案内をした琉球人の認識である。使節船の航海が、記録にのこる最初から最後まで琉球人の導(みちび)きにたより切りだったことは、上述の奧原敏雄氏らが四十年前に論じた大功績である。郭汝霖の時にも出航前に立派な大船が中々準備できず、琉球の敏捷自在なる小船に一緒にのることを一度は思慮(しりょ)したほどである。ただ釣魚列島は日本と琉球との間の島嶼ではなく、琉球と明清(みんしん)との間の島嶼であるから、小さな琉球にほとんど記録が無く、明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。琉球人が航路上で提供した情報を明人清人が記録したのがこれら史料なのである。丁度ケルト文化をラテン語で書き記すのと同じである。(つづく)

2012年

8月

03日

尖閣前史(ぜんし)、無主地(むしゅち)の一角に領有史料有り ① 長崎純心大准教授 石井望

尖閣を通る東西航路
 琉球は日本とチャイナとの二方面に臣服(しんぷく)する外交を結んでゐた。皇帝の使節一行が琉球に派遣され、琉球王が臣下の形式を執(と)ったことは教科書などにも出てくる。使節の船は琉球人の案内により福州から東に進んでタイワン島の北側をかすめ、釣魚(尖閣)列島を通って姑米山(こべいさん)(久米島)から那覇に到達する。ほぼ東西方向の航路であった。使節渡航をめぐる漢文諸史料の中では、航路上の琉球域西端は常に姑米山(久米島)である。姑米山の西の赤嶼(せきしょ)(大正島)を含む釣魚(尖閣)列島は無主地(むしゅち)であり、明治以前にいづれかの國の領有を示す史料は一つも存在しない。明治になってその無主地を先に領有したのが日本である。無主地時代から明治の日本領へとつづく歴史が釣魚列島の五百年であり、歴史から言っても法理から言っても日本固有の領土である。


 チャイナはユーラシアの中で東方に孤立した文明である。中華思想をいつまでも捨てないのは、孤立した田舎者だからこそ可能なことだった。中華思想ではチャイナが天下の統治者だとの虚構(きょこう)を原則とする。天下の統治者にとって無主地はチャイナの一部分だとの理屈になり、昭和四十五年ごろから釣魚列島の領有を主張し始めた。無主地が自動的に自分の物だとは、もちろん公法上で無効の歪説(わいせつ)である。


航路上のチャイナ東端
 念のため上述の航路上のチャイナ側の東端(とうたん)はどこまでか。諸史料をみれば、清(しん)の初期以前はタイワン海峽北部の東沙山(とうささん)(馬祖島)までであり、清の初期以後はタイワン島の北端(ほくたん)の鷄籠山(けいろうざん)(基隆)までであった。それを示す史料の例としては、清初の汪楫の「觀海集」に載せる漢詩の題に曰く、


 「過東沙山、是閩山盡處」
 (東沙山を過ぐれば是れ閩山(びんざん)のつくるところなり)


と。琉球への往路を詠む詩集内の一首である。この前の詩では福州からの出航を詠み、後の詩では航路上の大海を詠む。閩(びん)とは福建省を指す。山とは陸地である。東に進む航路上で福建省の陸地がつきる最後の島が東沙山(馬祖島)だと、ここに明示してある。そこから東のタイワン島北端はまだ清の統治を受けず、まして釣魚列島が清の領域外であることは瞭然として明白である。しかしこれまで尖閣論議の中でこの記述は引用されたことが無かった。現在のチャイナはこの種の史料を無視してきたのだが、今年三月に拙著「和訓淺解(わくんせんかい)・尖閣釣魚列島漢文史料」の中で論破したので、チャイナの主張は遠からず消滅する運命にある。

 

 更に念のため、清の前の明の東端はどこまでかとみれば、まだ完全に明瞭でないもののほぼ清と同じである。一例として明の郭汝霖の後述使録の復路に曰く、


 「漸有清水、中國山將可望乎。」
 (漸く清水有り、中國山(ちゅうこくさん)將(まさ)に望むべからんとす)


と。これは操舵する福建の船長役が浙江の陸地の見える前日に報じた語である。中國山とは中心の國(ここでは明朝)の陸地・島嶼を指す。他の記録でも大陸附近で海水が黒色から淡色(たんしょく)になったあたりで「中國」(ちゅうこく)(中心の國)が近いと認識する。


 要するに尖閣航路の正しい理解は、チャイナの東端が東沙山・鷄籠山の附近、琉球の西端(せいたん)が久米島、そして二者の間は無主地(むしゅち)である。(つづく)
           ■    ■    ■
 中国・明代の文書に、尖閣諸島が「琉球」と明記されていたことを初めて指摘した、長崎純心大の石井望准教授の論文を連載します(1日付本紙参照)。石井氏の希望で論文には旧仮名遣いを使用しています。ご了承ください。