2016年

9月

01日

県立病院改革へ職員一喝 仲井眞知事との思い出① 元沖縄県福祉保健部長 宮里 達也

 私は昭和26年に本部町山川というところで生まれた。現在、海洋博公園として沖縄観光の中心施設のあるところである。今も昔も青く透き通る美しい海はほとんど変わらない。しかし、私が幼少のころは水の乏しい本当に貧しいところであった。現在では観光が沖縄の基幹産業に育ち、道路や上下水道も整備され、各地から訪れた人々で活気にあふれており、隔世の感がある。
 私が生まれた直後に両親は職を求めて那覇に移った。小学校入学の時まで本部の祖父母のところで育った。祖母は子供のころ転び、肘を脱臼した。当時、その地域には医療はなく、そのまま放置されていた。醜く変形した腕は、農作業で鍬をふるった後にはしばしば激しく痛み、「あの頃今のような医療さえあればこんなに苦しまなくてもよいのに」と嘆いていた。
 私は医学部卒業後、約10年間琉球大学に所属し臨床をやっていたが、期するところがあって昭和63年から医療行政官に身を転じた。宮古保健所赴任を皮切りに、県内各地の保健所で仕事をした。
 平成21年の4月に県福祉保健部統括監となり23年度は部長に昇進した。統括監の内示が発表される数日前に総務部人事課から知事室に呼び出された。仲井眞弘多知事と直接面談することは初めてであったため相当に緊張した。
 知事の前に着席するや否や、知事は一方的に話し始めた。「県立病院事業が短期借入金100億円となり、資金不足で破綻の危機に陥っている。これから三年間、特別に繰入金を増額し短期借入金を解消しようと思っている。しかし、これまでのように経営に無頓着ならば数年後は再び経営危機に陥る。そうなれば地域医療の核となっている県立病院は、医療の進歩に合わせて再投資することもできずじり貧になっていく。そうなれば困るのは住民である。君は他のことは何もしなくていい!県立病院の経営改革のことだけをやるように!」
 当時、知事の面接を受ける他の部の統括監予定者は数人いたが、私との時間が一番長かったと聞いた。ともかく、顔を真っ赤にして県立病院経営再建を指示する知事の迫力に、これから待ち受ける責任の重さに身が引き締まったことを覚えている。
 統括監就任後、県立病院事業についての知事説明を何度か行ったことがある。ある日私が、「県立病院を守るためには…」といった、当時盛んに使われていたフレーズを用いて説明を始めようとした。突然大声で「ダメだ!医療は日々発展向上している。県立病院も向上し発展する気概がなくてどうする!守ってばかりいてはダメだ!」と一喝された。その時、仲井眞知事はこれまでの知事とは違い県立病院に強い思いがあると確信した。
 実際、老朽化した宮古病院の建て替え案件は、県立病院事業の10数年来の懸案であったが、短期借り入れがあまり大きくて、なかなか実行できなかった。知事が特別繰り入れをするといった決断をしなければ、宮古病院の新築はさらに遅れたであろう。
 仲井眞前知事の県立病院事業に対する並々ならぬ思いが具体的形として実を結んだ事例が八重山においてもある。直接に恩恵を受けた八重山住民の方々にもほとんど知られてないエピソードである。今回、新聞社のご厚意で八重山地域の医療に仲井眞前知事がなしたことの幾つかを紹介したい。