ドキュメンタリー作家上原正稔の挑戦!  R紙の言論封殺との戦い 江崎 孝

 来る2月24日(火)、「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第五回公判が那覇地裁で行われる。


 この訴訟はドキュメンタリ作家上原正稔氏が、R紙の「言論封殺」を訴えるという前代未聞の裁判であるにも関わらず、これを知る県民はほとんどいない。沖縄の2大紙、R紙とО紙が、自分たちにとって「不都合な真実」は、決して報道することはないからである。


■上原氏怒りの記者会見■
 ちょうど一年前の1月31日。県庁記者会見室でドキュメンタリー作家上原正稔氏が記者会見を行った。その日の午前中に、上原氏はR紙に対する損害賠償訴訟を那覇地裁に起こし、それを受けての会見であった。代理人の徳永信一弁護士が訴訟の概略を説明した後、マイクに向かった上原氏は、開口一番沖縄戦時に慶良間島で戦隊長を務めた赤松嘉次、梅沢裕両氏に対して「大変なご迷惑を掛けた。ごめんなさい。許してください。そして同時にありがとうと言いたい」と侘びの言葉を述べ、両隊長による「集団自決の命令がなかったことは火を見るより明らかだ」、「真実を伝えるのがマスコミの使命だ」と訴えた。


 さらに、会場の記者団に向かい「R紙の記者は来ているか」と問いかけた。若手の記者が「はい、来ています」と挙手で答えると、上原氏はその記者に向かって「君たち新聞記者は、都合の悪いことは報道しないが、この裁判で君の会社が訴えられたのだよ!」と一喝し、「これを明日の記事にしなかったら新聞社の恥だよ」と釘を刺した。気の毒にも、まだ若いR紙の記者は、上原氏の気迫に押されたのか「ハイ」のひと言だけで返す言葉はなかった。上原氏は、2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)で、異論を封殺するR紙を激しく糾弾したが、R紙はこれに反論どころか、一切これを報道せず黙殺で通したことをR紙の記者に皮肉ったわけだ。


■『うらそえ文藝』での告発■
 沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』で上原氏は、県文化協会会長の星雅彦氏との対談で自分がR紙から受けたあからさまな言論封殺について詳しく話していた。少し長くなるが上原氏がR紙を訴えた経緯を知る上で参考になるので、関連部分を抜粋引用する。


 ≪星: そうですね。現在でもある意味では統制されているわけですからね。
 上原: もう完全に右も左も統制です。僕はR紙のM記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。
 星: 社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。
 上原: 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。
 星: 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。
 上原: いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これはR紙の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。≫(2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)


 原告上原氏の挑発が効いたわけでもないだろうが、被告のR紙は記者会見の翌日2月1日の紙面で、盟友のО紙より小さなベタ記事ながら次のように報じた。


 ≪「連載掲載拒否」本紙を提訴
 表現の自由を侵害されたなどとして、那覇市のドキュメソタリー作家、上原正稔さん(68)が1月31日、R紙を相手に慰謝料など約1千万円の損害賠償を求める訴訟を那覇地裁に起こした。
 2007年5月からR紙タ刊で連載された「パンドラの箱を開く時」をめぐり、R紙から途中の原稿の掲載を拒否され、表現の自由侵害などで精神的苦痛を被ったと主張している。
 R紙は「連載を一方的に止めた事実はない。従って『表現の自由の侵害』には当たらないと認識している」としている。(R紙2011年2月1日)≫


 徳永弁護士によると、裁判の要点はこうだ。
 上原氏がR紙に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」の、慶良間の集団自決問題の真相に触れる部分が、「社の方針に相違する」との理由で掲載日の直前になって突然中断に追い込まれ、大幅な原稿の改変を余儀なくされた。4カ月後に執筆を再開したが、最終章の原稿の掲載を拒否され、未完のまま終了した。徳永信一氏は「R紙が、原稿の受け取りを拒否し連載を打ち切ったのは、契約違反である。事実に基づく真相の探求を封じたことは個入の表現の場を一方的に奪ったものであり、公正で不偏不党な報道という社是に背反し編集権を逸脱する」と述べた。


 裁判の名目は「損害賠償の請求」と、民事訴訟では良くある訴因だが、裁判の根底に大きな争点が隠れていることは被告のR紙が一番承知している。それは日頃言論の自由を標榜する新聞社としては最も恥ずべき行為とされる「言論封殺」をR紙自らが行った事に対する訴訟ということだ。そして新聞社による「言論封殺」の裏には、沖縄戦で長年論議されてきた「集団自決における軍命の有無」が最大の争点として潜んでいるであることを、原告、被告の両陣営が強く意識していることは言うまでもない。


 沖縄戦記を研究テーマにするドキュメンタリー作家上原氏とR紙の間に起きた裁判沙汰を振り返ってみる。両者の間に一体何があったのか。


■2007年、沖縄のメディアは集団発狂した■
 ここで時間を5年前の2007年に巻き戻してみる。この訴訟の本質を見極めるためには、上原氏の原稿に何が書かれていたかという点と、もう一つ重要な点は、その原稿が掲載拒否された2007年5月の沖縄の社会的時代背景である。


 平成19年(2007年)3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見で、沖縄慶良間諸島でおきた集団自決に関し「軍の命令によるもの」という従来の記述を削除するよう求めた。 地元2紙は連日、「集団自決」に関する特集を組み検定意見を撤回することを求めるキャンペーンを大々的に張った。そしてその年は9月20日に行われた左翼勢力主催の「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会(11万人集会)」へと狂気のように雪崩れ込んで行った年である。


 各市民団体、労働団体が抗議声明が連日の紙面を飾る騒然とした状況の中、私はドキュメンタリー作家の上原正捻氏がR紙の夕刊に連載していた沖縄戦記「パンドラの箱を開ける時」を深い興味を持って愛読していた。


 というのは実証的戦記を得意とする上原氏が当時話題沸騰であった集団自決の「軍命論争」に関し、どのように記述するかが関心の的だったからだ。上原氏とは面識はなかったが、従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題にすり替える手法をとらず、沖縄戦の真実の物語を追及している異色の沖縄戦研究者として関心を持っていた。上原氏が始めた1フィート運動を取り上げた沖縄テレビ制作『むかし むかし この島で』は、第14回FNSドキャメンタリー大賞ノミネート作品となり、沖縄テレビのサイトでは、上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかを垣間見ることができた。 これも上原氏の「パンドラの箱を開ける時」に興味を持った一因であった。  http://www.fujitv.co.jp/b hp/fnsaward/14th/05-330.html


 当時私と同じように上原氏の「パンドラの箱を開ける時」の連載に注目している人物がいた。産経新聞那覇支局長をしていた小山氏のことだ。私は小山さんのブログを愛読していおり、6月16日のブログに第2話「慶良間で何がおきたか」が20日の夕刊から始まり、慶良間の集団自決がテーマになることが書かれていた。そこには上原氏は、「圧力に屈することなく執筆する」と話していたと記されていた。私が長年関心を持っていた集団自決の軍命論争の核心が愈々上原氏の筆により語られる、と期待に胸が膨らんだのを記憶している。

■パンドラの箱は閉じられた■
 待ちに待った5月20日、R紙夕刊の紙面を隅から隅まで探したが「パンドラの箱を開ける時」は、何処にも掲載されていなかった。通常、何らかの理由で連載記事が予定日に掲載されない場合、執筆者か掲載紙の方から、休載の理由について断りがあるもの。ところが、この予期せぬ休載については、上原氏はおろかR紙側からも一切何の説明もなかった。突然の休載に愛読者として一抹の不安が胸をよぎった。言論封殺ではないかという不安だ。 漫画家の小林よしのり氏が、沖縄の新聞のことを「異論を許さぬ全体主義」だと皮肉っていたことが現実のものとなって目の前に現れた、と考えた。R紙に電話を入れて掲載中止の理由を問い質した。だが、最初に対応したR紙の記者は、連載記事が掲載中止になっている事実さえ知らない様子だった。「自分の新聞のことも見ていないのか」と、言われて連載特集がが掲載されていないことを確認した後、電話は編集部に回されたが、その時「上原さん、原稿が間に合わなかったのかな」という記者の独り言が聞こえた。上原氏の記事の突然の中止は記者にも知らされずに急遽「言論封殺」が行われたものと直感した。その後電話に出た編集部の担当記者も動揺を隠せない様子で「調整中です」を連発するばかりで、納得できる応答は出来なかった。その時のやりとりを、当時から書いていた政治ブログ「狼魔人日記」に「沖縄のマスコミは大政翼賛会か」というタイトルで書き、読者の支持を受けた。 翌日のブログには「R紙は報道機関としてのプライドをかなぐり捨て、連載中の記事を『削除』するという禁じ手を使ったことになる。自分の意見と異なるという非常に分かりやすい理由で」と書き、「沖縄の言論空間は、いよいよ異様な様相を呈してきたようだ。サヨクの方々が常用する『戦前のような言論弾圧』がメディア主導で今正に沖縄で行われている。」と続けた。このR紙による唐突ともいえる「休載」に対し、私のブログ「狼魔人日記」の読者の反響は、大きなものだった。「R紙に抗議します」というタイトルで「R紙の言論封殺が今日で4日目です」「…今日で7日目です」と定期的にエントリーして抗議の意を表した。


■画龍点睛を欠く連載の再開■
 それから四カ月が経過した10月16日、「パンドラの箱を開ける時」が突然再開された。10月19日付のブログで書いたことを引用する。


 《10月16日。 二回目の「教科書検定意見撤回要請団」が上京し、沖縄中を巻き込んだ「集団自決」に関する大フィーバーも一段落が着いた。地元2紙の紙面にも一時のような「新証言者登場」といった刺激的な記事も殆ど見なくなった。その静寂の合間をつくように、その日(16日)のR紙夕刊に、4カ月の長期にわたって中止されていた「沖縄戦の記録」がソッと再開された。まるで一目をはばかるように。 何の予告もなく。(略)R紙側の突然の連載中止であるにも関わらず、新聞社側からは連載中止の知らせも、4カ月後の突然の再開の知らせも読者に対しては一言の説明もなかった。今後、R紙は「説明責任」で他人を責めることは出来ない。 結局、4カ月前に電話で問い合わせた答えの通りの長い「調整中」を、筆者の上原さんの「長い夏休み」としてゴリ押ししたのだろう。げに恐ろしきは新聞社の「調整」。これを別の名で言うと「言論封殺」と呼ぶ。長い「調整」の結果、内容も「調整」されている模様。
 事前の予告では次は「慶良間で何が起こったか」を明らかにするとしており、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだったが、再開した第2話のタイトルは「軍政府チームは何をしたか」と変更されているではないか。「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については触れていない。》(「狼魔人日記」 2007年10月19日)


■R紙の言論封殺■
 不自然な休載と同じく不自然な連載再開だった。
 R紙が上原氏に対して言論封殺を行った、という疑念は確信に変わった。私が一読者として感じたことはR紙の読者の誰もが感じたことだと考えた。R紙が言論封殺した上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、R紙を動揺させるどんな内容が書かれていたのか。だが、地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。


 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。後にわかったことだが、R紙に封殺された原稿には、上原氏が慶良間島の実地検証で得た「軍命はなかった」という論考が赤裸々に綴られていた。


■月刊誌『WILL』がR紙の告発記事掲載■
 上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。私は当時の沖縄メディアの異様な有り様を同時進行でブログに書き続けた。


 それが偶然雑誌社の目に留まり「沖縄紙の言論封殺」について原稿を依頼され、月刊誌『W ill』に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで掲載された。本文と重複する部分も有るが、有力言論誌が沖縄メディアの異常性を告発したという意味で注目されるので関連部分を抜粋引用する。


 ≪…平成19年6月19日は、R紙の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたという。
 「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが〝民意〟を煽っている最もホットなテーマのはずだった。言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。
 だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。≫(『WILL』2008年8月増刊号)


■竜頭蛇尾の最終回■
 上原氏の「長い夏休み」が終わり休載中の記事が再開されたとき、私はR紙の言論封殺を直感的に感じながらも、執筆者の上原氏に対して一種の失望感を感じたことを記憶している。 ひと言で言えば「上原正稔よ、お前もか!」という心境だった。


 その年2007年は新聞に登場する識者と言われる人達の「集団自決」についての論評は一斉に横並びで、例外なく「軍命があった」の大合唱だった。すくなくとも私の知る限り、「軍命」を否定する識者の論文は見たことがなかった。そんな風潮の中で「右も左も関係ない、反戦平和も関係ない」と「豪語」していた上原までもが、R紙の言論封殺に唯々諾々と従ったと考えたからだ。一読者であり上原氏とは面識のなかった私は、後に知ることになる上原さんとR紙との掲載拒否についての壮絶なバトルを知るよしもなかったのである。 従って肝心な部分で何の断りもなく四ヶ月も休載しておきながら白々しく「長期休暇」としか言い訳の出来ない上原氏に、やはり「全体主義の島」では実証的戦記を得意とする上原氏でも新聞の論調には迎合せざるを得ないのか、と落胆したのだ。


 それでも、肝心の「慶良間で何が起きたか」を欠落したままでは画竜点睛を欠くと考え、最終回までには慶良間の記述に戻るだろうと失望しながらも淡い期待を抱きつつ、2008年の連載記事の最終回を迎えることになった。


 「第13話 最終章そして人生は続く」と題する最終回は、「慶良間で何が起きたか」についての記述をフラッシュバックするどころか、本題とは外れる上原氏が始めた1フィート運動の経緯について紙面の大半を使っていた。


 これでは「パンドラの箱を開ける時」というタイトルからしたら、まさに竜頭蛇尾の最終回であた。長期連載戦記「パンドラの箱が開くとき」は、皮肉にも箱のふたを閉じたまま最終回を迎えることになったのだ。


■読者を敵に回したR紙■
 「慶良間で何が起きたか」の記述を欠落したまま終わるのでは、期待して最後まで読み続けた読者を裏切ったことになる。読者はR紙によって「知る権利」を奪われたことになるのだ。


 その後、上原氏がR紙の言論封殺に対し提訴することを知った一読者としての偽らざる心境は、上原氏がR紙を相手取って起こした「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は、上原とR紙の間の損害賠償の訴訟ではなく、R紙が自己のイデオロギーのため読者の「知る権利」を封殺したということになる。


 つまりこの訴訟は、実質的にはR紙が全読者を敵に回した「言論封殺」訴訟ということが出来る。(宜野湾市、ezaki0222@.ne.jp)