慶良間で何が起きたのか① ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 はじめに、2011年1月31日ぼくは琉球新報を憲法の表現の自由違反と著作権侵害で訴えた。その内容は慶良間の〝集団自決〟の真相を伝えようとする一作家を封殺そして弾圧する新聞社の横暴ぶりを告発するものだった。―これだけでも前代未聞の一大事件だが、沖縄の新聞社もテレビも黙殺を続けてきた。そんなわけでぼくの戦いを知る沖縄の人々はほとんどいなかった。そんな中で八重山日報が去る一月と三月に江崎孝さんの〝上原正稔の挑戦〟を掲載し、そのニュースはあっという間にインターネットを通して全国に広がった。琉球新報も沖縄タイムスも自分たちの都合の悪いニュースは一切黙殺を続けている。しかし、今、八重山日報に続いて、五月十日には『うらそえ文藝』が江崎孝さんの八重山日報の「上原正稔の挑戦」論考の縮刷版を発表する運びになった。


 読者もよくご存じのように教科書問題では八重山日報は傲り高ぶった沖縄タイムスと琉球新報に対し、敢然と「真実の報道」を続け、見事に勝利したと言ってよい。真実は多数決で決まるものではないことを証明したのだ。


 ぼくの数えるほどしかいない友人らはぼくのことを「勇気がある」と評するが、それは勇気ではない。人のために尽くす、自分のために尽くすな、とぼくの尊敬するロジャー・ピノー先生から教えられた。その言葉を守っているだけだ。「集団自殺」の問題は実は「自分自身のために尽くしている」琉球新報と沖縄タイムスに対する「人間の尊厳を懸けた戦い」なのだ。それをこれから伝えよう―


 2006年初頭、ぼくは琉球新報の編集長から沖縄戦の長期連載を依頼された。何年でも自由に続けてくれ、ということだった。それだけぼくを信頼してくれていたのだ。第一弾としてその年の四月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」147回を発表し、好評を博したと言ってよい。何の問題も起きなかった。第二弾の「パンドラの箱を開ける時」が2007年5月末から始まり、その冒頭でぼくは次のように予告した。


 「第二話 慶良間で何が起きたのかは今、世間の注目を浴びている〝集団自決〟についてアメリカ兵の目撃者や事件の主人公たちの知られざる証言を基に事件の核心を突くものになるだろう。」だが、第二話が発表されることはなかった。ぼくの物語はその後、四ヶ月間中断した。一体何があったのか。ぼくの連載の新担当者となっていたМ記者には多くの原資料と一週間分の原稿を渡していた。その時、Мはこれはおもしろそうだな、と嬉しそうに言った。そして翌日上京することになっていると話した(東京で何があったのか、誰に会ったのか、そのうち明らかになるだろう)。六月十五日(金)のことだった。ところが、六月十八日の月曜日、Мから新報社に来てくれ、と連絡が入った。新報社に着くと、Мはヤケに威張った調子で、ぼくを編集部の上の階の空き部屋へ連行した。そこには顔見知りの編集記者三人が難しい顔をしてぼくを待っていた。Мはいきなり言った。「第2話は載せないことにした。」「何だと!どういうことだ。」ぼくは怒鳴った。記者の一人が「新報の編集方針に反するからだ。」と冷ややかに言った。別の記者は「君は何年か前に同じ記事を書いているじゃないか。重複は許さん。」ぼくは言った。「それは君らの屁理屈だ。僕は第1話の伊江島戦でも日本側とアメリカ側の両方の資料を使っている。その一つは既に新報で発表している「沖縄戦ショウダウン」を使ったぞ。第2話も「沖縄戦ショウダウン」や多くの資料を使って4、50回の長編にして赤松、梅澤の名誉を回復するものにするつもりだったのだ。その資料はМにも渡している。彼は喜んでいたぞ。」だが、四人組はできんものはできんの一点張りで前に進まない。ぼくは言った。「君たちにはぼくの連載にストップをかける権利があるのか。表現の自由の権利を侵しているんだぞ。ぼくは記者会見でこれを発表する。」一人の記者(現編集局長)があわてて「記者会見はやめてくれ」と言った。話は決裂した。


 こうして6月19日から始まることになっていた「慶良間で何が起きたのか」が発表されることはなかった。翌日から予告を読んで期待していた読者から新報に抗議や問い合わせが殺到し、新報社内は騒然となった。ブログで毎日のように「パンドラの箱…」を追っていた江崎孝さんもそんな読者の一人だった。一般の読者は気づかなかったが、彼は「言論封殺」が起きていることをいち早く悟っていた。そのことは「上原正稔の挑戦」で詳しく述べられている。産経新聞の小川さんも同様だ。二人とも報道に関わっているから敏感なのだ。


 実はこの時期2007年6月は琉球新報と沖縄タイムスが「集団自決には命令があった」とする大キャンペーンの真っ最中にあったことを忘れてはならない。3月31日政府が「教科書から集団自決の軍命削除」の記事が新報、タイムス両新聞で大々的に報道され、大キャンペーンが始まっていたのだ。新報とタイムスはオピニオンリーダーとしてその社説や社会面、文化面で各市町村に働きかけ、8月までには全市町村が「集団自決には軍命あり」の決議が出されているという異様な状況だった。しかもその議決文がほとんど同じ文面を並べている始末だった。


 「パンドラの箱…」が中断し、読者からの抗議や問い合わせが殺到しても琉球新報が上原正稔の筆を折っても図々しく構えていた理由もそこにある。中断から四ヵ月後、Мが連載担当から除され、連載を再開することにし、読者には申し訳ないが「慶良間で何が起きたのか」は飛ばすことになった。        (つづく)