明和の大津波痕跡巡りに参加して① ~津波遺跡の教訓を生かそう~ 本紙論説委員 徳松 信男

 石垣島における明和の大津波痕跡巡りが去る6月24日行われ参加した。前日に八重山日報紙に桃原用昇氏による明和の大津波に関する教訓の投稿があり、市関係者、教育委員会、社会教育委員など約20人という予想以上参加があった。このバスツアーは市立博物館の学芸係長の島袋綾野氏の詳しい解説があった。また地域の歴史に詳しく、鎌で雑草を掃って先導する玉津教育長、津波や地域に関わる八重山民謡を三線で弾きながら名調子で謡ういきいきまなび課の宮良課長など役者ぞろいであった。


 見学ルートは市役所を出て、元博物館のある八重山蔵元跡、大浜黒石御嶽、高こるせ石、宮良大久家の墓、明和大津波遭難者慰霊乃塔、伊野田の津波石、白保千人墓、津波後に蔵元が移転したブンニー一帯など10か所以上を見学した。八重山在住の人でもこれらの遺跡のいくつかでも観た人は非常に少ないだろう。


 印象に残った遺跡のいくつかについて述べよう。宮良湾の中にある大浜津口北の端の石ととりふやの石であるが、これらはたかこるせ石と呼ばれ、もともと大浜の黒石御嶽にあったといわれる。一つは宮良湾の大浜津口に流され、もうひとつは磯辺の牧場内に流されたといわれている。いずれの石も8メートル(4間角)近くの石で、その時の大浜村での津波の高さが、古文書によると44メートルもあったと記されている。

 

 崎原公園内にある津波大石はサンゴや貝の化石を確認する事ができる。これらの付着したサンゴの年代測定によってこの大石は明和の大津波ではなくて、2000年前に打ち上げられたものであることが確認されているという。大浜から宮良に抜けて高台にある宮良小学校の後にある小浜家の墓があった。そこは先祖の遺体が打ち上がった場所の北側に墓をつくったと言われ、標高33メートルほどである。この近くに複数の津波伝承の墓が存在している。津波前の宮良村の人口は1,221人いたが、そのうち1,050人が死亡した。あとに小浜村から、320人を移住させて村を高台の漢田と言うところに移転したという。

 

 その後明和の大津波遭難者の慰霊の塔に行った。その近くには津波来襲時に生き残った人たちが一時的に共同生活をしたという興味深い土地がある。今年の慰霊祭はここで官公諸機関の代表の方々や一般市民により盛大に行われた。私も参加したが、感動的な慰霊祭であった。津波大石に関しては桃里伊野田のあまたりや潮荒が二つあり、そのひとつには間近まで行き、全員で見学した。ここでも3間角の大石の巨大さに驚いた。(つづく)