尖閣前史(ぜんし)、無主地(むしゅち)の一角に領有史料有り ① 長崎純心大准教授 石井望

尖閣を通る東西航路
 琉球は日本とチャイナとの二方面に臣服(しんぷく)する外交を結んでゐた。皇帝の使節一行が琉球に派遣され、琉球王が臣下の形式を執(と)ったことは教科書などにも出てくる。使節の船は琉球人の案内により福州から東に進んでタイワン島の北側をかすめ、釣魚(尖閣)列島を通って姑米山(こべいさん)(久米島)から那覇に到達する。ほぼ東西方向の航路であった。使節渡航をめぐる漢文諸史料の中では、航路上の琉球域西端は常に姑米山(久米島)である。姑米山の西の赤嶼(せきしょ)(大正島)を含む釣魚(尖閣)列島は無主地(むしゅち)であり、明治以前にいづれかの國の領有を示す史料は一つも存在しない。明治になってその無主地を先に領有したのが日本である。無主地時代から明治の日本領へとつづく歴史が釣魚列島の五百年であり、歴史から言っても法理から言っても日本固有の領土である。


 チャイナはユーラシアの中で東方に孤立した文明である。中華思想をいつまでも捨てないのは、孤立した田舎者だからこそ可能なことだった。中華思想ではチャイナが天下の統治者だとの虚構(きょこう)を原則とする。天下の統治者にとって無主地はチャイナの一部分だとの理屈になり、昭和四十五年ごろから釣魚列島の領有を主張し始めた。無主地が自動的に自分の物だとは、もちろん公法上で無効の歪説(わいせつ)である。


航路上のチャイナ東端
 念のため上述の航路上のチャイナ側の東端(とうたん)はどこまでか。諸史料をみれば、清(しん)の初期以前はタイワン海峽北部の東沙山(とうささん)(馬祖島)までであり、清の初期以後はタイワン島の北端(ほくたん)の鷄籠山(けいろうざん)(基隆)までであった。それを示す史料の例としては、清初の汪楫の「觀海集」に載せる漢詩の題に曰く、


 「過東沙山、是閩山盡處」
 (東沙山を過ぐれば是れ閩山(びんざん)のつくるところなり)


と。琉球への往路を詠む詩集内の一首である。この前の詩では福州からの出航を詠み、後の詩では航路上の大海を詠む。閩(びん)とは福建省を指す。山とは陸地である。東に進む航路上で福建省の陸地がつきる最後の島が東沙山(馬祖島)だと、ここに明示してある。そこから東のタイワン島北端はまだ清の統治を受けず、まして釣魚列島が清の領域外であることは瞭然として明白である。しかしこれまで尖閣論議の中でこの記述は引用されたことが無かった。現在のチャイナはこの種の史料を無視してきたのだが、今年三月に拙著「和訓淺解(わくんせんかい)・尖閣釣魚列島漢文史料」の中で論破したので、チャイナの主張は遠からず消滅する運命にある。

 

 更に念のため、清の前の明の東端はどこまでかとみれば、まだ完全に明瞭でないもののほぼ清と同じである。一例として明の郭汝霖の後述使録の復路に曰く、


 「漸有清水、中國山將可望乎。」
 (漸く清水有り、中國山(ちゅうこくさん)將(まさ)に望むべからんとす)


と。これは操舵する福建の船長役が浙江の陸地の見える前日に報じた語である。中國山とは中心の國(ここでは明朝)の陸地・島嶼を指す。他の記録でも大陸附近で海水が黒色から淡色(たんしょく)になったあたりで「中國」(ちゅうこく)(中心の國)が近いと認識する。


 要するに尖閣航路の正しい理解は、チャイナの東端が東沙山・鷄籠山の附近、琉球の西端(せいたん)が久米島、そして二者の間は無主地(むしゅち)である。(つづく)
           ■    ■    ■
 中国・明代の文書に、尖閣諸島が「琉球」と明記されていたことを初めて指摘した、長崎純心大の石井望准教授の論文を連載します(1日付本紙参照)。石井氏の希望で論文には旧仮名遣いを使用しています。ご了承ください。