尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り ② 長崎純心大准教授 石井望

琉球西端は姑米山と赤嶼の間か
 琉球西端は久米島までとして史料上ずっと確定したものに見えるのだが、一つだけそこに疑問符をつける史料が明の郭汝霖の「重編使琉球録」である。郭汝霖は福州から東に航行し、嘉靖(かせい)四十(西暦千五百六十一)年閏五月三日に赤嶼(せきしょ)に至った。そして、


 「初三日至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。」
 (初三日(しょさんにち)に赤嶼に至る。赤嶼とは、琉球を界(かい)する地方山なり)


 と記録する。尖閣研究で最も基本的な史料の一つである。姑米山(こべいさん)(久米島)の西の赤嶼(大正島)が琉球の分界(ぶんかい)の島だとの意であり、他史料とやや異(こと)なる記述である。但し姑米山の琉球域に向かって分界を成(な)す意に解すれば他史料と矛盾(むじゅん)しないかの如(ごと)くにも見える。即ち赤嶼と姑米山との間が分界となる。昭和四十五年以降の論議の中ではずっとこの解法が通行してきた。楊仲揆・井上清・奧原敏雄・呉天穎(ごてんえい)・尾崎重義・鞠德源(きくとくげん)・鄭海鱗(ていかいりん)諸氏及び人民日報など、概ねひとしく一致してゐる。ただ喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏だけは赤嶼そのものが界(かい)であるとの別解に言及するが、言及しただけでやめて仕舞って、結論では逆に赤嶼まで明(みん)の領土だとする。緑間榮氏は赤嶼のどちら側が界なのか不明確だとする。


 赤嶼如何と論じる以前に、琉球の分界の島なるものは、琉球といづれの國との分界なのか。原文はそれを書かない。無主地との分界だから書かないのである。昭和四十五年以降のチャイナ側の主張では、天朝中華にとって自明の領土はわざわざ書かないのだとする。時の國士舘大教授・奧原敏雄氏はそれを荒唐無稽(むけい)としりぞけた。大功績である。


西端は赤嶼だった
 では上述の郭汝霖の「界」(かい)の原意は赤嶼の東側なのか西側なのか。このたび私は初めてその解を定める記述を既知(きち)の史料中で見つけた。同じ郭汝霖の「石泉(せきせん)山房文集」卷七に「例を査(しら)べて祭を賜(たま)ひ、以て神功(しんこう)に報ゆるを乞(こ)ふ」と題する上奏文が載録してある。その中で上述の嘉靖(かせい)四十(西暦千五百六十一)年の琉球行に言及して曰く、


 「行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。」
 (行きて閏五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地(かいち)は赤嶼と名づけらる)


 と。琉球の境とは琉球の域内の義である。苦境・佳境・逆境・環境などの語で馴染(なじ)みの通り、「境」とは場所・領域を指す。「渉る」は「入る」とほぼ同じ意味である。「界地」とは分界(ぶんかい)の地である。全句は赤嶼が琉球の域内に進み入る分界の島だとの文意である。これにもとづいて見直せば、同じ郭汝霖の「重編使琉球録」の同日同地の記述も、赤嶼そのものが分界地となって、そこから琉球域内だとの意味になる。赤嶼と姑米山との間が分界だとするこれまでの解法は通じないことが分かる。


 赤嶼の東側は海中の急峻な崖で沖繩トラフに落ち込み、そこを黒潮が流れる。「石泉山房文集」でも上述「重編使琉球録」の「敬神」(けいしん)の個所でも、ともにその海域で大魚(たいぎょ)が出現したことを述べる。黒潮の特徴である。「この特徴が琉球域なのです」と琉球人が郭汝霖に告げたので郭は琉球域と書いたのだと推測すべきである。そしてそこへの入り口が赤嶼だと認識されたわけである。明人にとって既知(きち)の事柄でないため、一方で「赤嶼者」と解説し、一方で赤嶼の前に「名」の字を冠する。


界そのものは域外か
 では界地たる赤嶼そのものは琉球域内なのか域外なのか。それはまさしく域内でも域外でもなく、ただ界(かい)なのである。それが原文そのままの理解である。上述の喜舍場(きしゃば)氏の解が半分は正しい。但し界だと定(さだ)めたのは琉球の人々だったはずで、且つ界外は無主地(むしゅち)であるから、現代法に照らせば界そのものは琉球の領有である。野球やテニスなど多くの球技で界線そのものがセーフとなるのは何故か。線の外が隣(となり)の試合場でなく、ただの無効域だからであらう。


 赤嶼につけられた「者」(しゃ)「名」(めい)の字で分かる通り、この「界」は海を知らぬ郭汝霖個人の認識ではなく、海路案内をした琉球人の認識である。使節船の航海が、記録にのこる最初から最後まで琉球人の導(みちび)きにたより切りだったことは、上述の奧原敏雄氏らが四十年前に論じた大功績である。郭汝霖の時にも出航前に立派な大船が中々準備できず、琉球の敏捷自在なる小船に一緒にのることを一度は思慮(しりょ)したほどである。ただ釣魚列島は日本と琉球との間の島嶼ではなく、琉球と明清(みんしん)との間の島嶼であるから、小さな琉球にほとんど記録が無く、明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。琉球人が航路上で提供した情報を明人清人が記録したのがこれら史料なのである。丁度ケルト文化をラテン語で書き記すのと同じである。(つづく)