尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り ③ 長崎純心大准教授 石井望

別解(べっかい)の可能性
 念のため別解が有り得るかどうか考察してみよう。「渉琉球境」とは、赤嶼(せきしょ)を通り過ぎた後にしばらく航行して姑米山(こべいさん)(久米島)との中間線あたりで琉球域即ち姑米山海域に進み入ったことを指し得ないだらうか。答へは、指し得ない。郭汝霖「重編使琉球録」の記述によれば、閏五月三日に赤嶼に至って後一日の風を受ければ姑米山が見える筈(はず)だが、無風状態で船が三日間止まって仕舞(しま)ったと述べる。姑米山に近づき得ないことを言った記述であって、姑米山の海域に進み入ったとする意識のまさしく相反である。そして閏五月六日の午刻(ごこく)に風が吹いて船は大いに進み、夕方には姑米山のやや東北の小姑米山(粟國島)(あぐにじま)附近に到達したと述べる。半日だけでそこまで到達できたわけは、この海域の西から東に向かって太くひろい黒潮が流れ、三日間止まった間に東に漂流してしまったが故である。漂流しても三日かかってまだ姑米山(久米島)に到達しないのだから、二島の中間線に到達したのはほぼ閏五月五日であって、閏五月三日のうちには不可能である。よって閏五月三日に渉った琉球境とは、中間線ではなく赤嶼(大正島)からであると分かる。


他史料との整合性
 他の諸史料では常に姑米山に至ってから琉球の領域内だとする中で、郭汝霖の記述だけは特殊(とくしゅ)に見える。これを整合するには、姑米山が界内(かいない)、赤嶼が界そのものだとするのが諸史料原文のままに素直な理解である。例として後の清の徐葆光「中山傳信録」(ちゅうざんでんしんろく)では姑米山を「琉球の西南方の界上の鎮山(ちんざん)なり」とする。先行研究は全てこの記述を以て姑米山が最西端(さいせいたん)だとしてきたが、今郭汝霖と併せみれば「界上」は界そのものでなく「界のほとり」と訓じ、即ち界附近の義である。鎮山とは風水で都城の背後に鎮坐(ちんざ)する主山(しゅさん)であるから、界附近の大きな島と理解すべきである。徐葆光は急に風水を持ち出したわけでなく、つとに郭汝霖が土納己島(渡名喜島)を風水の「案山」(あんざん)(中間の山)とするなどの前例を承(う)けたものである。


「中外の界」説の終焉(しゅうえん)近し
 以上で琉球の領域が赤嶼までだったことをお分かり頂(いただ)けた筈(はず)である。平面で見れば、琉球の領域が少々西に伸びただけのことである。しかし、たて軸(じく)で見れば郭汝霖の記述は重大な意義を持つ。赤嶼(せきしょ)を含む釣魚列島は、多くの史料のどこを探しても國家による領有の記述が無い。だから無主地なのである。このたびの新見解は、明治以後百年あまりの尖閣研究の中で初めて領有に言及する史料が登場したことになる。史料そのものはあたり前に存在してきたが、この記述は尖閣論議の中に初めて出現する。百パーセント無主地だとの認識の一角が崩(くづ)れたことになる。


 現在の我々が最も知りたいのは、この史料が日本側にとって(八重山人にとって)どうか、チャイナ側にとってどうかである。日本側にとっては赤嶼の東であれ西であれ明治になれば領有するので、あまり意味は無い。しかしチャイナ側にとっては衝撃(しょうげき)である。本稿前半に引いた清(しん)の汪楫は、赤嶼と姑米山との間で「中外の界」を述べ、他の清の尖閣航路史料でも同じ場所に「黒溝」(こくこう)の記述が有り、チャイナ側はそれを領土の分界線(ぶんかいせん)だとしつこい程に叫ぶ。しかし東沙山(とうささん)(馬祖島)までを領土とする汪楫本人が、はるかに尖閣の東の内外の界(かい)ひとつを以て領土分界とみなすはずがない。また同じ中外の界や黒溝の記録が釣魚列島のはるか西にも有ることを、かつて喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏(時の琉球大教授)が明らかにした。チャイナ側の立論(りつろん)はそこで潰(つい)えたのだが、西の界(かい)と溝(こう)とを全て無理やり赤嶼の東に存在するものとこじつけて延命(えんめい)をはかり、いつまでもやめようとしない。今次(こんじ)の新見解により、最も基本的な史料とされる郭汝霖使録の赤嶼が、チャイナ側から琉球側にころぶので、「中外の界」説のこじつけが更に難しくなる。(つづく)