ふるさと市民の願い ―災害に強い市役所を高台へ移転する英断を―① 玻名城英介

 八重山民謡の子守り歌「あがろーざ節」の中に、子守りたちが腕や手首を痛みながらも、「大人・高人ゆなりとうり」と歌っている。子守りたちが夢みた人物像が大人・高人だったのである。


 さて、人は努力と運によって大人・高人になれるが、これらを超える人物が現れた。桃原用昇氏である。八重山の発展に寄与する人材育成に、前代未聞の1億円という奨学資金を石垣市に寄付したのである。彼の強い郷土愛と善意や幸福を広めていく無償行為に対して、私は用昇氏が大人・高人を超えた「碩徳の人」になったと思っている。石垣中・八重山高校の野球部で一緒に汗を流したあのヤマングーだった用昇氏の人生の集大成としての善行に、敬意を表する者である。


 又、用昇氏は「危機管理能力」が卓越した人物でもある。ふるさとを思うひたむきな心と目は、八重山の人々の身体・生命、財産、文化、自然環境の保護及び生活の向上に向けられているからである。それは1771年に襲来した「明和の大津波」の教訓を生かし、「防災に強い町づくり」が基本だと指摘していることにある。因みに、防災教育の推進のため「日本人の底カ―東日本大震災1年の全記録」という図書等を学校や関係機関に寄贈している。


 東日本大震災の惨状が脳裏を離れず、約240年前に八重山を襲った明和の大津波の警鐘が風化していくことを憂慮していた私は、改めて八重山の百年の大計を考えぎるを得なくなった。私を覚醒させたのは用昇氏であった。


 ご承知の通り、明和の大津波は「大波之時各村之形行書」・「大波揚候次第」等八重山の行政庁蔵元から琉球王府に提出された大津波の公式詳報によると、1771年(明和8年)3月10日(旧暦)午前8時ごろに、石垣島南東40キロの海上で大地震があり(M7・4)、この地震がやんですぐに東の方が雷のように轟き、間もなく外の干瀬まで海水が引き、所々で波が立ち、その潮が一つになり、特に東北・東南の方に大波が黒雲のように躍り上がって立ち、いっときに村々へ三度も寄せ揚がった大津波のことである。


 潮が揚がった所の高さは、あるいは宮良牧中の頂上近くで28丈(85・4m)、平得村は8丈6尺(約24・54m)、石垣・登野城・大川・新川の四か村は、宮鳥御嶽前の坂下の東西線までが引き流され(約8m~12m)、蔵元、各役所、桃林寺、御嶽等も引き崩され、在番や頭役人等も命を落とした。特に、津波が侵入した宮良・白保等は壊滅的な被害を受け、八つの村は跡形もなく全壊、七つの村が半壊するなど未曽有の大災害であった。死者は八重山群島の総人口28,992人の三割にあたる9,313人、被害面積は島の40%に及び、田畑は疲弊し、家畜等の死骸から疫病やマラリアという伝染病が流行した。(つづく)