唐人墓160年回忌慰霊祭を前に㊥ 田島 信洋

 私から要請書を受けとりながら、市民の代表である議員諸氏は誰ひとり関心を示さなかった。八重山歴史研究会は、会員の多忙を主な理由に、積極的な関与を断る回答文書を私に寄せた。八重山文化研究会からは音沙汰がない。まだ一度も議論されたことのないこの事件を、島の歴史や文化、教育に携わる地元の人間が主体的に考えないで、いったい誰が考えるのか。島で起きた類まれな事件を、子どもたちにどう教えるのか。


 異国船の崎枝沖での座礁でロバートバウン号事件が始まったと得能氏は述べているが、全くの誤りである。本人は同事件を研究していたつもりかもしれないが、同事件の真相は、家譜や琉球国側の史料でなく英文史料によってしか知り得ない。国際的に知られる同事件とは、それより以前に同船上で起こった唐人の反乱をめぐり米英と中国が争った事件をいう。専門家として恥ずかしい。

 

 その得能氏が「島民や首里王府は事件の当事者ではない」、「八重山や首里王府が振り回されて、死者も出たというのはホントです」、「(琉球国側の死者を)あえて犠牲者とまでいって追悼する必要を説くというのはあまり冷静な話ではありません」などと述べている。


 この「ホントです」という得能氏の軽い言葉からは、往時の島民の苦難を自分の問題として考えようとする真摯な態度が感じられない。得能氏が述べるように、たしかに事件は「座礁」で始まった。つまり、島で起こった。それなのに、なぜ翻弄された島民や琉球国は当事者でないのか。なぜ唐人だけが犠牲者で、なぜ唐人を世話した糸数仁屋らは犠牲者でないのか。なぜ唐人だけを追悼し、琉球国側の死者を追悼するのが冷静な話ではないのか。中国(台湾)側の関係者でも、人道をわきまえているなら、私の提案に賛同してくれるだろう。得能氏の見解は、島の人間として、容認しがたい。


 唐人が島に上陸してから護送されるまで、一年七ヶ月余の間に生起した様々なできごと全体を、私は「事件そのもの」として捉えている。それを、あえてロバートバウン号事件と呼び、あるいは同事件に対する島民の「支援」や首里王府の「対応」だと主張しているのが徐恭生氏、某政党系の思想信条をもつ西里喜行氏、そのほかの同調者たちである。


 ちなみに、西里氏より先に論文を発表していた宮田俊彦氏や平和彦氏は、論文名を「福州・広東苦力の八重山・宮古島漂着事件」「アメリカ苦力貿易船ロバートバウン号の八重山漂着事件」とし、唐人墓建立の最大の功労者である牧野清氏は「唐人石垣島漂着事件」と記していた。私と同じように捉えていたのである。島の人々が唐人墓をかつて「サンビャクトゥヌピトゥヌパカ」と呼んでいたことに鑑み、「三百唐人墓事件」がもっとも望ましいと、私自身は考えている。


 往時の島民がおかれていた悲惨な状況に思いを寄せながら、私は史料を読み、調べ、書いた。島で起こった事件なのだから、当然のことだろう。私が島民の視点に立って研究を進めたのは偶然であるが、この視点は西里氏らに決定的に欠落していたものだった。なぜ中国人民の艱難に同情を寄せながら、琉球国の島民の惨状には鈍感だったのか。それを知ってもらうには、次の例がわかりやすい。


 たとえば西里氏は、当初の論文で唐人「捕縛作戦」を唐人「捕獲作戦」と述べていた。(ただし、私の指摘を受けて後に書き改めている。)唐人は犬や猫ではあるまい。この無神経さ。ここに「観念左翼」の典型的な短所があると言ってよい。ついに西里氏が持てなかった島民の視点。この一点だけでも、私の研究には価値があると自負している。


 さて、本稿の核心に入る。
 関係者が開き直り、専門家が沈黙する背景に、くり返し名前が登場している西里氏の存在がある。西里氏は元琉大教授で、唐人墓研究の第一人者を自他ともに認める「専門家」であった。竹富町史編纂委員会の副委員長を務めている。


 その西里氏が、あろうことか、歴史研究者として食べてはいけない「歴史の改ざん」という禁断の実を食べていた。重要な史料の一つに移民契約書があるが、自分のイデオロギーに合致するように、その契約書を徐恭生論文を翻訳する過程で書き替えていたのである。それに私が気づいた。徐氏の了解を得ていたのか?自分だけの判断だったのか?


 西里氏の研究の問題点はそれだけではない。たとえば、唐人は英米の植民地主義者によって誘拐同然に略奪販売されたと主張する西里氏は、「長年雨降らず、人民飢餓に及び、英国(註・アメリカが正しい)へ行き、渡世の働きをもって助命致したく、船に乗り込んだ」と、琉球国側の取り調べに対し話していた唐人の供述を無視した。父母養育の恩に報いるため、財利を求めるために出稼ぎ移民としてサンフランシスコに行くつもりだったと、唐人自身が述べている感謝状を黙殺した。埋もれていた唐人墓に初めて光をあてた宮田俊彦氏の記念碑的な論文を、論文名に「出稼ぎ」という文言があるからだろう、参考文献から省いている。こんな無礼があるだろうか。


 さらに、手書きの原文で非常に読みづらいサラトガ号艦長報告書の一部を適当につなぎ合わせ、わずか九行だけ紹介して、あたかも全体を読んだかのように論じている。また、島津文書を読んだかのように参考文献として章末に掲げていた。(つづく)