馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第一囘 石井 望

 

 チャイナの尖閣奪取運動が猖獗(しゃうけつ)を極めてゐた本年九月十四日、臺灣(たいわん)各社報道によれば、馬英九總統(そうとう)は1872年(明治五年)の成立著作「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」(清・周懋琦(しうぼうき)著)の中から、「釣魚臺(てうぎょだい)」(今の尖閣諸島・魚釣島)の記述を發見(はつけん)したといふ。記述個所に曰く、


 「山後大洋有嶼。名釣魚臺。可泊巨舟十餘艘。崇爻山下可進三板船。」
 (山後の大洋に嶼(しま)あり、釣魚臺と名づけらる。巨舟十餘艘(よそう)を泊すべし。崇爻山(すうかうさん)の下は三板(さんぱん)船を進むべし)


 と。「山後」とは臺灣(たいわん)島の東半分である。崇爻は今の花蓮である。三板船は小船である。文意は、「臺灣東側の大海に島が有り、島名は釣魚臺といふ。大船十艘あまりが碇泊可能である。花蓮の海岸には小船を入れられる」となる。


 NYタイムズにも
 馬英九氏は釣魚臺を題材に博士論文を書いたほどのマニアで、漢文史料をめくってゐた時にこの記述に出逢ったといふ。早速ニュースは臺灣だけでなくチャイナのインターネットを馳せ巡った。數日後には臺灣外交部の公式ネットページにも、領有史料の一つとして掲載された。


 少し遲れてニューヨークタイムズ紙の著名記者、ニコラス・クリストフ氏のブログに臺灣の國際法學者邵漢儀氏の論文が掲載され、「全臺圖説」のこの記述も取り上げられた。クリストフ記者はチャイナ側の主張を支持してゐる。それに對し駐ニューヨーク日本領事館の川村總領事が反論を投稿したことは、ひろく報じられたのでご記憶だらうか。しかし川村氏は漢文史料に論及しなかった。


 日本領有の直前に
 この記述そのものは他史料にも屢見するので、私はまた同じものが一つ増えただけのことと思った。新發見といふのも疑はしく、誰かが以前に論及してゐた可能性もある。とは言へ史料が成立したといふ西暦1872年は、日本が尖閣を領有した西暦1895年から僅か二十三年前であり、國際法上で決定的な意味を持つかも知れない。よって念のため原書をしらべてみることにした。


 その結果、何のことはない、「全臺圖説」のこの個所は「奇來」(今の花蓮)の段の中で述べられてゐた。奇來は清國の領外であるから、釣魚臺も國外としての記載なのである。(つづく)(本連載は、十一月五日八重山日報記事への解説です。石井氏の希望で旧仮名使いにしてあります) (長崎純心大准教授)