馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第二囘 石井 望

 「山後の大洋の釣魚臺」の記述は多くの史料に見えるもので、西暦1852年の官製地理書「葛瑪蘭廳志」にも見える。私は他と同じやうなものと思って注意しなかったのだが、馬英九總統の一件もあってこちらの原書もしらべてみた。


 するとこれまた何のことはない、釣魚臺(尖閣)は「蘭界外」といふ一段に記載され、蘭(宜蘭)の境外すなはち清國外に釣魚臺が在ったことを示してゐる。チャイナ側はこれまで釣魚臺が宜蘭に屬すると公式に主張してをり、その根據の一つがこの書なのだが、よくみると逆に主張を全否定する史料なのである。


 「蘭界外」の記述を見つけてから、念のためインターネットを檢索したところ、今年九月十日に臺灣の著名人・潘建志氏のブログ「BILLY・PAN的部落格」で既に發表されてゐた。私は第一發見者になり損ねたのだった。


 宜蘭(葛瑪蘭)の領域はどこからどこまでか。同じ「葛瑪蘭廳志」内の記述で確認して置かう。卷一「疆域」(領域)の段に曰く、
 「東北至泖鼻山、水程九十五里。……東南至蘇澳過山大南澳界、八十里。」
 (東北のかた泖鼻山に至る、水程九十五里なり。……東南のかた蘇澳より山を過ぎたる大南澳の界に至る、八十里なり)


 と。泖鼻山は宜蘭領域の東北端の岬である。蘇澳は宜蘭の東南端の臨海平原である。大南澳は平原から山を越えて更に最南端の村である。釣魚臺は宜蘭の東北方向170キロメートル先に在るから、明白に宜蘭の界外である。この記述は潘建志氏も既に引用してゐる。


 ▼未知の領土外情報の集まり
 「蘭界外」の一段には、山後(臺灣東部)の奇來(花蓮)を中心とする先住民の情報が集められてゐる。情報源は道光辛卯(西暦1831)年の福建人蔡某の報告及び、それ以前の地誌諸本の零碎記述である。地誌からの情報では、山後の先住民の一部が毎年「社餉」(貢物)を清國にもたらしたとする。蔡某は名前も記録されないから、山後の先住民の中で邪利を貪った民間通事(仲買人)か、もしくは通事を介して先住民と交易した社商(清國指定商人)の類だらう。假に社商だとしても、その情報源は矢張り通事であり、社商は直接先住民の中まで這入らない。


 念のため社餉の實際を粗覽しよう。古典とされる「裨海紀遊」などによれば、一部の先住民が狩獵で得た鹿などを、通事が不平等交易でしぼり取り、社餉として清國の社商に轉賣し、社商が地方政府に納めたといふ。清國側は税に類する貢物と位置づけるが、かりに貢物を定期的に納めたとしても、それは近隣の朝貢國と同じことに過ぎない。實際には先住民側にとっては民間通事との不平等交易であって、仲買を經て間接的に清國に轉賣されたのだから、貢でも朝でもない。朝貢國よりも更に疎遠である。しかも交易したのは先住民のうち所謂「化蕃」(貢納する先住民)に過ぎない。


 「葛瑪蘭廳志」の記録は、道光年間に至ってなほこの種の民間通事の情報に賴るほどだから、清國が山後を統治してゐなかったことをよく示す。されば未知の國外の情報を集めたのがこの一段なのである。


 ▼領土外情報の末尾に釣魚臺
 これら國外情報の末尾に、「重修臺灣縣志」といふ地誌から釣魚臺及び花蓮の記述が引用される。馬英九氏發見の史料とほぼ同文である。そして引用文の後に曰く、


 「竟有至其地、可知也。」
 (竟に其の地に至る有りと知るべきなり)


 と。「竟」は古義で「つひに」と訓ずるが、ここではチャイナ語習が混入して驚きを表はす語だらう。句意は「驚くべきことにその地に到達した人がゐると分かる」となる。到達をわざわざ述べるのだから、花蓮も釣魚臺も國内ではないとの認識を看て取ることができる。(つづく)(長崎純心大准教授)

「葛瑪蘭廳志」(成文出版社「中國方志叢書」より)
「葛瑪蘭廳志」(成文出版社「中國方志叢書」より)