馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第四囘 石井 望

全臺圖説(文海出版社「皇朝經世文續編」より)
全臺圖説(文海出版社「皇朝經世文續編」より)

 馬英九氏最愛の「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」の釣魚臺(尖閣)の前段には、中部の埔里(ほり)及び中部東路の花蓮の情勢を述べる。その文に曰く、
 「此時不即爲患者、各國互相觀望、不肯發端。久則必爲外人所據。心腹既爲所據、沿邊・海口交午相通、患有不可勝言者矣。」
 (この時即(すなは)ち患とならざるは、各國互ひに相ひ觀望し、端を發(はつ)するを肯(がへ)んぜざるなり。久しければ則ち必ず外人の據(よ)る所とならん。心腹既に據る所となれば、沿邊(えんぺん)・海口、交午に相通じ、患あげて言ふべからざる者有り)
 と。大意は下の通り。「奇來(きらい)(花蓮)及び埔里など中部に對して、列強各國は形勢を觀望し、兵端を開いてゐない。心腹(中部)が列強に占領されれば、沿邊(領土線)から東海岸まで交互に通じ合って害をなすだらう」と。沿邊の外として花蓮の情勢を述べるのだから、國外である。

 

 ▼同一史料で領土外
 「全臺圖説」は更に國内の記述部分でも、
 「將卑南以北各社、全行收隸版圖。」
 (卑南(ひなん)以北の各社をとりて、全行して版圖(はんと)に收隸(しうれい)せよ)
 との建議を述べる。卑南とは臺灣(たいわん)島の東南部である。その北の各社とは、花蓮の各村落を指す。領土編入の建議であるから、花蓮はまだ領土ではない。

 

 このやうに清國の統治は未だ臺灣全土に及ばず、奇來を含む東部中路は國外であったことが、馬英九氏の同一史料で明白である。そこに記載する釣魚臺(てうぎょだい)も、國外情報である。馬英九(ばえいきう)先生には大いに感謝せねばなるまい。
 史實(しじつ)も重要だが、それよりも重要なのは、釣魚臺を記録する史料自身が、花蓮を國外扱(あつか)ひで記載することである。だからこそ、同個所に附記される釣魚臺も國外扱ひと分かる。花蓮が國外であった史實そのものは補説に過ぎない。

 

 ▼馬英九史料は日本派兵の前年
 馬英九氏は「全臺圖説」を西暦1872年の成立とした。根據は著者の周懋琦(しうぼうき)が臺灣府知事となったのがこの年なるがゆゑだらう。しかし篇中に曰く、
 「現在六社之中多設立教堂」
 (現在六社のうちに多く教堂を設立す)
 と。六社とは、臺灣中部の埔里地域である。教堂とはキリスト教の教會堂である。埔里に多數の教會堂(長老派教會)が建てられたのは西暦1873年(平成十九年の張珣(ちゃうじゅん)氏・姚嘉音(えうかいん)氏・林文德の論文などによる)であるから、「全臺圖説」の成立はこの年以後である。

 

 また全篇の内容は、前述の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(連載第三囘)よりも前の地方官制に本づいて書かれてをり、西暦1875年より以前の著作と分かる。しかも前述のやうに兵端は開かれてゐないのだから、西暦1874年五月に日本が派兵するより以前である。
 更に篇中に「本年四月(陰暦)に外人が埔里で救災活動をしてゐる」と述べるので、成立の月度(げつど)は陽暦六月から十二月の間である。臺灣キリスト教史にとっても重要な記述だらう。

 

 以上により、成立年月は西暦1873年六月から十二月の間と推定できる。この時、花蓮はなほ清國の國外である。 (つづく)(長崎純心大准教授)