馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝 第五囘 石井 望

重纂福建通志(内閣文庫藏)
重纂福建通志(内閣文庫藏)

 「全臺圖説(ぜんたいづせつ)」と同じ「釣魚臺(てうぎょだい)」(尖閣)の記述は、二年前の西暦1871年に出版された官製地理書「重纂(ぢゅうさん)福建通志」の「海防」の部の宜蘭(ぎらん)(葛瑪蘭(カバラン))の項目にも見える。宜蘭の項目に載ってゐることを根據(こんきょ)として、今のチャイナ側の公式文書では釣魚臺を宜蘭の所屬(しょぞく)とする。しかし、項目の劈頭(へきとう)に曰く、
 「北界三貂、東沿大海」。
 (北のかた三貂(さんてう)に界(かい)し、東のかた大海に沿(そ)ふ)
 と。これは宜蘭の界域を述べてゐる。三貂は領域の東北端の岬の地名であり、前述(連載第二囘)の泖鼻山(ぼうびさん)とほぼ同地である。「大海に沿ふ」とは、普通の地誌では「大海に至る」と書くところだが、宜蘭の本府(ほんぷ)が緩(ゆる)やかな入り江の内側に在り、直線で正東に至ると入り江の奧の海岸であるため、領域の東端にならない。海岸に沿って東北に進めば東端兼北端の三貂に至る(連載第二囘の圖(づ)を參照(さんせう))。それゆゑ「大海に沿ふ」といふ書き方になったのである。


 要するに宜蘭は東端も北端も三貂までであり、尖閣は更に東北に百七十キロメートル先に在る。明白に宜蘭の界外であって、チャイナ側主張は同一書の同一項目で否定される。
 「重纂福建通志」の三貂について、私は本年九月十五日午後十一時三十八分に臺灣(たいわん)外交部(外務省)主催の「釣魚臺短文コンテスト」に電子メール送信で應募(おうぼ)し、その文中で論及した。外交部からは九月二十一日午後六時十分に返信があり、「受け取った」とのことであった。後になって他の人がブログなどで同じ論旨に言及したやうだが、嬉しいことに私が先である。應募した原文は落選したが、今後別の媒體(ばいたい)で一字も改めずに公表するつもりである。


 ▼不正確な前時代の情報
 「重纂福建通志」については別の問題がある。卷四「疆域(きゃうゐき)」には宜蘭(葛瑪蘭)が載ってゐないのだ。「疆域」の卷は領域を明示するもので、他の卷の零碎の記述に較べて公式の領土記録である。載ってゐない原因は、宜蘭を領土に編入する以前の情報のまま改めなかったに過ぎない。しかし、かりに「重纂福建通志」を基準とするならば、清國領土に宜蘭が存在しなくなり、「宜蘭に釣魚臺が屬する」といふチャイナ側主張も存在すらし得ない。
 「山後の大洋の釣魚臺」の記述は、更に後の西暦1885年の成立史料「臺灣生熟番(せいじゅくばん)紀事」にも載ってゐる。しかしその上下文に見える各地行政區劃(くくわく)は、前述(連載第三囘)の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(西暦1875年)で改編されるより以前のままである。されば釣魚臺も、同じく西暦1875年より以前の國外情報として記録されたものに過ぎない。


 ▼あたり前の結論
 結局、馬英九總統(そうとう)は釣魚臺が國外だったと示す史料をみづから發表したことになる。早速私は駁論(ばくろん)を書いて前述(連載第一囘)のクリストフ記者に送った。しかし返事は、既に受附を締め切ったとのことだった。私としては折角なので大手英字新聞に掲載したいと思ふ。
 諸史料で常に國外情報として「釣魚臺」が記録されるのは、日本側に都合良い話ではなく、ただの必然である。清國の人々にとって統治外の花蓮も釣魚臺もほぼ未知の領域であった。未知の釣魚臺の僅有(きんいう)の情報を、未知の花蓮とともに末尾に附録する。あたり前である。それを斷章(だんしゃう)取義して西太平洋侵略を企てる人々に、我々は決して迎合してはならない。 (つづく)