中村勘三郎を悼む 辻 維周

高校の卒業写真。右が勘三郎、左が筆者
高校の卒業写真。右が勘三郎、左が筆者

 私と中村勘三郎(本名 波野哲明)との付き合いは、はるか53年前に遡る。私が通っていた歌の教室に偶然彼がいたのである。その後、小中高と同じ暁星学園と言う私立に通い、ほぼ12年間同じクラスで過ごした。もちろん彼はすでに勘九郎を襲名しており、舞台や稽古などで休むこともあったが、学校にいる時は単なるいたずら坊主に過ぎなかった。

 

 中学生になって歌舞伎座に彼の芝居を見た帰りに、楽屋へ遊びに行った時の事、ちょうど彼の父親である先代の勘三郎が顔を作っている最中だった。先代の勘三郎は楽屋を入った瞬間に威圧感を感じるほどの人間であったが、私には笑顔で接してくれた。しかしその時私は委縮してしまい、十分に話も出来ずにすごすごと楽屋を後にした事を覚えている。

 

 その後、先代勘三郎がなくなり、その葬式に参列した時、当時の勘九郎はもう歌舞伎を背負って立つ覚悟を決めていたらしく、涙も見せずに参列者に気丈に応対していた。

 

 その後も、勘九郎の楽屋を度々訪れたり、関ヶ原の合戦400年記念イベントに招かれて、対談したりしていたのだが、彼が「平成中村座」を立ちあげて初めての年、中村座の楽屋で次のように切り出してきた。

 

 「今の歌舞伎は入場料が高すぎて、若い人たちが来づらいじゃないか。だから来年この中村座に金額が高い席を作り、その代わり1000円程度で全幕見られる学生席も作るつもりなんだ。自分は歌舞伎を特別なものではなく、原点に帰って庶民芸能として見てもらいたいんだよ。どう思う?」私は「それは是非お願いしたい。やはり伝統芸能の気位も大切だが、もっとハードルを下げて、学生たちにもどんどん来てもらいたいね。」と答え、その言葉通りに翌年は「学生席」が設定された。

 

 しかしその時、彼の口から「この小屋はね、千秋楽の翌日にはもう跡形もなくなってしまうんだ。役者の人生もそんなものさ。役者って孤独なんだよ。」としんみり語った事も思い出す。そして勘三郎襲名が決まった時も「お前、まだ少し早くないか?勘三郎の大名跡を継ぐのはとんでもないプレッシャーだぞ。それにお前にはまだ先代の威圧感がない」と言うと、彼は「自分もそう思う。しかし早く勘三郎を継いで、俺の足跡をこの世に残しておきたいんだ。」と話し、2005年勘三郎を襲名した。

 

 その襲名披露公演の時、あるカード会社の企画による歌舞伎解説を東京、神戸、福岡で私が担当することになったが、今思うと彼は「自分は短命である」ということを悟っており、生き急いでいたように感じる。

 

 勘三郎襲名後は破竹の勢いでコクーン歌舞伎のような新歌舞伎から伝統的な歌舞伎、そして新劇やテレビドラマまで幅広く活躍し、一躍大役者に躍り出た。にもかかわらず、我々同級生との付き合いは欠かさず、昨年春には「辻、お前、今石垣島で野生生物の保護活動をやっているんだよな。俺も何か手伝いたいと思うから、息子の勘九郎襲名が終わったら、石垣に行くことを考えるよ。俺でも何かの役には立つだろう。もう少し待ってくれよ。」と言ってくれたが、その言葉が実現される前に逝ってしまった。

 

 彼は我々が200年掛っても出来ないことを、たった57年の人生の中でやり遂げ、その芸風や理念は息子の勘九郎、七之助はもちろんのこと、中村屋一門によって語り継がれていくことだろう。

 

 波野よ、お前は立派すぎる足跡を残したが、少し早く逝きすぎたな。でもお前が手伝ってくれようとした石垣の野生生物保護は、きっと俺たちがやり遂げるから、あっちの世界で応援してくれよ。


 走り続けて疲れただろう。俺がそちらに行ったら、また馬鹿話をしよう。それまでゆっくり休んで待っていてくれ。