尖閣東に琉球との境界線 新説、中国公式見解を否定

汪楫「使琉球雑録」(内閣文庫所蔵写本)
汪楫「使琉球雑録」(内閣文庫所蔵写本)

 中国政府が今年9月に公表した「釣魚島(ちょうぎょとう)(今の尖閣諸島)白書」で、尖閣諸島の東に清国(しんこく)の境界線があったとした見解について、中国でなく琉球の境界線だったとする新説が発表される。長崎純心大石井望准教授(漢文学)が23日までに明らかにした。
 清国の派遣使節・汪楫(おうしゅう)は、1683年に琉球に渡航し、「使琉球雑録」(しりゅうきゅうぞうろく)という記録を残した。その中で、尖閣の東に「郊」(こう)が有り、船員がこれを「中外(ちゅうがい)の界(かい)」だと言ったことを記録している。中国側はこれまで、この中外の界が「中国」と琉球との境界線だと主張して来た。中国国務院は今年9月25日、「釣魚島白書」を公表し、この主張を公式に採用している。
 石井氏の研究によれば、汪楫は自身の漢詩集「観海集」(かんかいしゅう)の中で、福建省沿岸の東沙山(とうささん)(今の馬祖島(ばそとう))を中国の東端だと記録している。そこから遥かに尖閣附近の公海を越えた東側の「中外」の記述には、「国」の字が含まれず、中国と外国との境界ではないという。
 石井氏は、「郊とは近郊・郊外の比喩(ひゆ)で、道教(どうきょう)的な都市の内外の境界を指す。琉球国は明国(みんこく)の道教の影響を受けており、ここで言う中外とは、風水思想における琉球の『内外』を指す」と指摘する。
 さらに石井氏は、「汪楫の使節船は、台湾の北端を経由しない琉球人特有の航路を採用しており、船中で針路を主導していたのは琉球人であった。中外の界を言ったのも琉球人だ」と話す。
 石井氏の研究成果は、間もなく発行される「純心人文研究」19号に掲載される。