クガドゥンのことなど㊤ 尖閣諸島文献資料編纂会 国吉 まこも

 来る2013年1月14日は「尖閣諸島開拓の日」である。この1月14日というのは明治28(1895)年、時の伊藤博文内閣によって領土編入が閣議決定された日にちなんで制定されたと聞く。


 尖閣諸島の開拓は主に、古賀辰四郎という一人の寄留商人によってなされた事業である。この古賀という人がいなかったら、我々が知る同島の歴史というのは違っていたものになっていたかも知れない。


 尖閣諸島の開拓者として知られる古賀辰四郎、どのような人物だったのか、簡単にではあるが、その足跡を辿ってみたい。

①寄留商人古賀辰四郎
 古賀辰四郎は安政3(1856)年、古賀門次郎の三男として、今の福岡県八女市にある山内という山間の村に生まれた。琉球処分がなされた明治12(1879)年4月、23才で来沖して以降、1918年、62歳で死没するまで、沖縄県の海産物や農産物を商う傍ら、尖閣諸島の開拓に力を注いだ。


 古賀が当時どのような経緯で沖縄に来る事になったかは定かでない。古賀の事を書いた資料等に実家は福岡の茶商であると記されているが、古賀が沖縄で扱った主たるものは海産物であり、現在のところ古賀が沖縄で茶を取引した記録は見当らない。ともかく、古賀は来沖した1879年に古賀商店という海産物問屋を開き、3年後の明治15(1882)年には石垣島の大川に同支店を開いた。この八重山の古賀商店、四カの古老の方にはいわゆるクガドゥンの名でなじみ深いかもしれない。


 戦前の新聞にある那覇の古賀商店の広告では「山に三」の商号が用いられている。この号は当初三兄弟で商売を開始したという事を意味するのだろうか。というのも、大阪では古賀の実兄、国太郎、与助らが大阪古賀商店を開いており、沖縄の店から送った海産物等の物品は大阪の店を通して、海外へと売り捌かれていた。この大阪店の商号も同じく「山に三」であり、八重山店の使った商号も、細部は若干異なるが「山に三」であった。つまり、戦前は、八重山古賀商店、那覇古賀商店、大阪古賀商店の3店舗が開かれ、八重山店が主に物品の仕入れを担当し、那覇店は物品の集積地かつ大阪店との連絡中継、大阪店は送られてきた海外への販路を担うという兄弟連携による仕組みが作り上げられていた。


 そうして沖縄から海外へと産物を輸出する事で、古賀は沖縄を代表する海産物商人として成長し、のちに無人島尖閣諸島の開拓と経営に乗り出すようになる。大阪の古賀商店に関する詳細は『古賀辰四郎と大阪古賀商店』望月雅彦著「南島史学第35号」に詳しい。興味のある方は市立図書館等でご覧頂きたいと思う。


 さて、尖閣諸島の開拓者として知られる古賀だが、実は古賀が最初に開拓を試みた無人島は尖閣諸島ではなく大東島であった。明治25(1892)年開拓の許可を得た古賀は蒸気船大有丸をチャーター、開拓資材等を積み込み、自ら糸満漁夫を率いて、おそらく意気揚々と島に向かったが、いざ現地に着いてみると、海は時化で荒れており、島の周囲は切り立った岸壁で艀船を寄せる事すら出来ない。何度も試みたものの結局上陸出来ず那覇に引き返す他はなかった。もし、この時古賀が大東島の開拓に成功していたなら、尖閣諸島の開拓は別の者によってなされていたのかもしれない。


 こうして大東島の開拓に失敗した古賀は、その後尖閣諸島の開拓を請願し、領土編入の翌1896年、沖縄県より開拓が認可され、30年の無償貸与を受ける事になった。島を占有的に開拓する権利が、古賀に与えられたわけである。

 

②古賀商店と尖閣諸島の開拓
 明治12(1879)年の来沖当初、古賀が目を付けた産物は、夜光貝、高瀬貝といった貝の貝殻であった事が、明治42(1909)年古賀が勲章を下賜される際に提出した資料に記されている。当時これらの貝殻は洋服の貝釦(ボタン)材料として欧米諸国で需要があり、沖縄はその主産地であった。古賀は貝殻を大量に買い集め、兄の大阪店に送り、大阪では神戸の外商を通して盛んに輸出した。沖縄本島周辺の貝殻の産出量はおそらくかなりの速度で減少していったものと思われる。新たな産地を開拓する必要に迫られた古賀が目を付けたのが、広大なサンゴ礁域を有する八重山諸島であり、そうして3年後の明治15(1882)年石垣島に新たな店が開かれる事となった。


 当時の八重山での貝殻採取について、明治18―19(1885―1886)年頃に八重山を実地踏査し、報告書をまとめあげた田代安定は、著書『八重山群島物産繁殖の目途』の中で、「―夜光貝殻、目今其採集頗ル盛ニテ多ク坂地ニ輸出セリ宜ク之レガ永続方法ヲ設クベキナリ―」と記しており、その頃夜光貝が採集されその多くが大阪(坂)に送られていたことがわかる。(つづく)