クガドゥンのことなど㊥ 尖閣諸島文献資料編纂会 国吉 まこも

 しかし、この新たな産地でも沖縄本島地方と同様、ほどなく取り尽くしてしまったと思われる。明治期の統計書を見るに、夜光貝殻の海外輸出は明治22年を境に減少の一途を辿り、以降、商品として多額の利潤を生む産物には成り得ていない。産出量が減少していく中、貝殻に代わる新たな物産を見出さなければならなかった。

 

 現在国の天然記念物に指定されている、アホウドリという海鳥がいる。この鳥は海鳥の中でもひときわ大きく、その体は上質の羽毛に覆われている。この羽毛が羽毛布団原料として欧米で重用された点に、当時の古賀は目を付けたのだろう。貝殻の採取は鳥毛のそれへと代わった。ちょうどアホウドリが多数繁殖すると噂される無人島が遠く八重山の北の沖にあった。尖閣諸島である。


 前回述べた通り、尖閣諸島の開拓を県から任された事により、古賀は島を占有的―要するに、アホウドリ羽毛の産出地を独占する事が出来たわけである。


 当然そこでは大規模な乱獲が起きた。古賀が開拓を始めてからの4年間で島から採取されたアホウドリ羽毛はおよそ115トンにものぼった(羽のように軽いと比喩される羽毛が115トン!)。アホウドリの減少を危惧した古賀は明治33(1900)年東京から宮島幹之助を招聘し、黒岩恒と共に尖閣諸島の調査を依頼したが、かいなくアホウドリはその後減少の一途を辿る事になる。余談だが、この時の調査報告で「尖閣列島」という呼称が黒岩により命名された。


 アホウドリの羽毛はその後、別の海鳥であるアジサシ類の剥製採取に取って代わられた。また、明治政府が奨励した漁業の近代化政策によりカツオ漁とカツオ節製造が日本全土に普及していく中で、尖閣諸島でも明治38(1905)年カツオ漁と節製造が行われるようになり、これまでの貝殻や海鳥の乱獲といった短期で枯渇する危険が大きい対象から、回遊魚であるカツオを対象とすることで、島の産業は幾分安定的な構造に変化していった。


 尖閣諸島の開拓及び八重山古賀商店の経営を古賀が主導したのは間違いないが、全て一人でこなしたと考えるのは、現実的でない。実際は尖閣諸島や八重山店に、古賀に代わる代理人とでも言うべき人々がいた。これらの人々について簡単に述べておきたい。


 ①尾滝延太郎(出身地不詳):古賀の甥であり、八重山店支配人及び尖閣諸島の開拓初期を監督した。多才な人物だったのか、同諸島地図を製図している。


 ②伊澤弥喜太(熊本県出身):尖閣諸島領有以前より、地元沖縄漁夫と共に島で海産物を採取していた。古賀の占有以降は主に明治末期まで開拓監督を受け持ち、その後は八重山を離れ台湾へ渡った。


 ③堤米吉(福岡県出身):出身地の八女市忠見村は山内村の隣村にあたる。八重山店の支配人を担当したと思われる。古賀代理人として紅露(クゥールゥー)の専買を認可された記録が残る。八重山店があったとされる土地を大正2年頃まで所有している。


 ④古賀光蔵(福岡県出身か):古賀兄弟の末弟にあたると思われる。八重山の漁業調査書には古賀辰四郎所有カツオ船「漁蔵丸」とあり、カツオ漁の指導をしたかも知れない。明治44(1911)年八重山にて病没。


 ⑤嶺岸佐多之佐(宮城県出身):明治16年頃に来沖してのち、八重山役所の書記を永らく務めたのち、退官して八重山店の支配人となる。書記在任中からイカ曳きを趣味とし、先島新聞紙上では「ハイカラ」とあだ名された。大正13(1924)年台湾で病気療養中死亡。


 ⑥照屋清栄(沖縄県那覇出身):商業高校卒業後、那覇店に入店のち、八重山店に移る。嶺岸支配人病没後、後任の支配人となる。戦後は古賀商店を引き継ぐ形で南海商会を立ち上げ戦後の八重山郡における水産復興を担った。


 余談になるが、海産物を取り扱う関係上、古賀は糸満人とも懇意にしていた。ミーカガン(水中眼鏡)を発明した玉城保太郎、糸満出身の水産家で第3代糸満町長玉城五郎らとの交友が記録に残されている。(つづく)