クガドゥンのことなど㊦ 尖閣諸島文献資料編纂会 国吉 まこも

 ③古賀辰四郎の死とその後
 尖閣諸島におけるカツオ漁とカツオ節の製造は軌道に乗り、その後、年々利益を増していった。現在テレビ新聞メディア等で古賀村と称され、たびたび紹介される写真はこの時期―具体的には明治41(1908)年に写されたものである。カツオ漁を経営の軸に据えると共に、古賀は珊瑚漁業や鳥糞の採掘業を試みているが、これらは成功していない。また大正3(1914)年に古賀が県知事に提出した報告ではカツオ船を新造すると共に、名蔵湾での真珠養殖を開始したとあるが、戦前の真珠養殖の記録に古賀の名は見受けられず、御木本の名が残るのみである。ともあれ、時代が大正期に変わっても古賀は意欲的であった。


 古賀は大正7(1918)年8月28日に死亡している。大正期のその時期の新聞が現存していないため、古賀の死因や葬儀の様子等は不明だが、今後当時の琉球新報等が発見されたならば、古賀の地位から考えて詳しく報じられた様が窺えると思う。海産物商としても、尖閣諸島開拓者としても、古賀は成功者として死んだ。


 さて、古賀の死後、事業は息子善次に継承される事となったが、子の善次の代になると尖閣諸島の開拓は停滞した。これまで開拓者や漁業者を通年滞在させていたものを、島でのカツオ漁期を冬季に限定する様になり、滞在期間も同じとし、滞在する者も漁業者のみになった。また善次は古賀の死の翌年の大正8(1919年)年に石垣島新川に土地を所得し、カツオ工場を設置している。尖閣諸島での事業を縮小し、カツオ節製造についても段階的に拠点を石垣島に移していったものと思われる。古賀の生前、新聞紙上をたびたび飾った、尖閣諸島の開拓や漁業について進捗を報じる記事はこうして途絶えた。


 兄与助は古賀より長生きしたようである。というのも古賀の死後の八重山の新聞や他の記録に善次と並んでその名が見られるからだ。一時期、何らかの理由で、与助は沖縄に滞在し、那覇店や八重山店の指導監督をする必要があったのかも知れない。


 尖閣諸島の開拓は停滞したが、その後も八重山古賀商店は順調に営業を続けた。従来通り海産物問屋を商いながら、島の住民相手の商売、農家に販売する肥料や農機具、セメント、はては「松の精」という名の滋養強壮飲料(広告文面から察するに朝鮮ニンジンエキスのようである)を取り扱っている。しかし、その後の昭和15(1940)年、戦中の物資統制の余波を受け、八重山店は解散する。那覇店は昭和19(1944)年の十・十空襲で焼け落ち、その後善次は妻花子の実家長野に疎開した。そうして沖縄の住民は全てを失い終戦をむかえた。


 戦後、元支店長の照屋清栄は南海商会という貿易会社を同店跡に立ち上げた。主な取扱品目は貝殻やカツオ節といった海産物である。看板は変わったが、戦前そのままの姿であった。復興期に入ってからは、善次も帰沖して同社の役員となっている。南海商会に永らく勤めた女性のお話によると、善次は良く同社を訪れ、物腰の優しい紳士で、なにより(肌の)色がとびきり白かった!そうである。こうして店は以前の姿に戻ったが、再び尖閣諸島に開拓の手が付けられる事はなかった。


 南海商会は現在存在しない。復帰頃まで営業を続けていたが、その後解散したと思われる。現在の730交差点の大川側にある駐車場付近が跡地である。同社が消え、古賀が沖縄で始めた事業は全てその終末をむかえた。


 地元八重山石垣島においてでも、戦前の古賀商店の姿を覚えている方は少ない(年齢的に考えて無理もないが)、尖閣諸島の開拓については言うまでもない。南海商会が古賀商店を継いでいた事を知る方もおそらく多くはないだろう。だが、「クガドゥン」という言葉は、人々の口から口へ語り継がれると共に、石垣市史を始めとする文献資料に記されている。


 在りし日の古賀辰四郎と古賀商店、そして尖閣諸島の開拓に携わった寄留人や地元八重山の人々、彼らの歴史を受け継いでいく上で、今後も語り継がれていって欲しい言葉である。


 尖閣諸島に残る古賀村跡、その代表的な魚釣島の石垣積みも、無人島と化した現在ではほぼ崩れ去ってしまっている。一方、乱獲されたアホウドリは近年になってその繁殖が確認され、年々個体数を増加させていっているそうである。


 沖縄大学では2013年1月13日、石垣島市健康福祉センターで移動市民大学開催する。当日、カメラマンの水島邦夫氏をむかえて、尖閣諸島のアホウドリ映像を上映する。島によみがえった、生きたアホウドリ映像をご覧頂ける機会をお見逃しなく、興味のある方は是非ご来場いただきたい。