3・11の声を聞いた 辻 維周

亘町におけるヘリからの救出(資料写真=陸自第15旅団提供)
亘町におけるヘリからの救出(資料写真=陸自第15旅団提供)

 先日那覇から羽田に飛ぶ機内で偶然隣り合わせになったのは、福島県富岡町で被災し、現在はいわき市に避難されているKさんと言う方だった。その方は5人のグループの一人で、いつまでも悲しんでばかりいないで、前を向いて生活して行くための起爆剤として八重山を旅行先に選んでくださった。


 「八重山はいわきと違ってとても暖かく、いいところですね」と、しばし八重山の話に花が咲いた後、私が日報で論説を書いていると言ったところ、「震災の事を何でも聞いてください。そしてより多くの人に伝えてください。何かのお役にたつかもしれませんから」とおっしゃられたので、震災から丸2年経つ今、その方の話をできるだけ忠実に伝えていこうと思う。


 3月11日午後2時46分、自分の畑で農作業をしていた時、強い揺れに襲われた。とても立っていられる状態ではなく、土の中に手を突っ込んでバランスを取らねばならなかったほどだったと言う。すぐに自宅に戻り、97になる年老いた母親と犬とを車に乗せて避難する道すがら、2人の知人を拾い、山の方へ走っている途中で津波に追いつかれた。その時の恐怖をこう語る。「車がふわっと浮いたんですよ。とっさにブレーキを踏みましたが、効くわけはありません。そうこうするうちに引き波が始まり、私の車も海の方へ引き戻されていきました。車内では人間はもちろんのこと、犬までもが目を見開いたまま、黙りこくっていたのです」


 第2波で沖合から陸地に押し戻されたその車が、再び引き波にさらわれようとした時、運よくコンクリートのビルに引っかかって止まった。第3波が来るまでのわずかな間に、壊れずに残っていたそのビルの階段を4人で昇り、屋上までたどり着いたその時、第3波が襲った。その波の中にも多くの人が浮かんで「たすけて!」と叫んでいたが、どうする事もできなかった。その声は4波、5波の時もしていたが、回を追うごとに少なくなり、とうとう水の音しか聞こえなくなってしまったという。


 また、引き波にさらわれそうになる孫の両腕を必死になってつかんでいた知り合いのお婆さんが、ふと気付くと孫の腕だけを握っていた(つまり体が無くなっていた)、というショッキングな出来事も目にしたと言う。その人は一時精神状態が不安定になってしまったが、必死の治療により何とか今は元に戻っているとのこと。さらに自分は直接出遭わなかったけれど、被災者の多くは自衛隊の方々に助けられ、感謝してもし切れないほどだったと言う話も聞いている。


 何時間経ったのかわからない頃、ようやくKさんたち4人は助けられ、焚き火にあたらせてもらった。今回ほど焚き火がありがたいと思った事はなかったが、逆に濡れそぼった服が、これほど乾かないものだとも思わなかった。その後、避難所として開放された学校の体育館へ移されたが、時間が経つにつれて灯油が不足し始めた。避難所は机やいすを積み上げて壁を作り、プライバシーを保たせようとはしていたが、音やにおいはどうにもならなかった。さらに寒さに震える年老いた母を少しでも暖めようとストーブを焚くと、「灯油を使うな」という怒声がどこからともなく飛んできて、結局我慢させるしかなかった。お腹をすかせて泣いている子供の事をビンタする親、どこからともなく聞こえるすすり泣きの声、怒声…何度も避難所を移動させられたり、人の死を目の当たりにしてきたりした避難民は急速に疲れ切って行った。


 自分の母親は「長生きしたらいい事があるかと思ったけれど、まさか最後にこんな仕打ちを受けるとは思わなかった」とポツリと語り、その後はうつろな目を見開くだけで何も語らなくなり、とうとう肺炎を起こして避難所で亡くなってしまった。しかし「母親の事を少しでも世話しようと思って、69歳にもかかわらずヘルパー2級を取りました。結果的に母親の世話には間に合わなかったけれど、その後も避難所で他のお年寄りのお世話を出来たので良かったと思っています」そして別れ際に「人間は強いですね。叩かれても叩かれても必死になって這い上がろうとする。ですから見守っていてください。そして頑張ったら拍手してください。人々は哀しみを足下に置いて立つ金剛力を持って群れてきていると思います」と明るい顔でおっしゃったのが、せめてもの救いだった。