琉球史新議 ~明は併合に公式に同意した㊤~ 長崎純心大学准教授 石井 望

 人民日報に琉球の領有は未確定だとの論説が載り、世間を騷がせてゐる。實質上はチャイナによる領有の主張である。彼らは常々過去の朝貢を強調してゐる。


 しかしそもそも過去のチャイナ人は自力で尖閣海域を渡航できず、琉球人の案内でやっと渡ったことが史料に歴々と書かれてゐる。況や尖閣の先の琉球を領有することなど、形式上では可能でも、歴史と文化の實質上は有り得ない。


 私は昨年來の尖閣研究の中で、薩摩による琉球併合に關(かか)はる一史實を見つけてゐた。大したこととも思ってゐなかったのだが、人民日報のお蔭で大したことになったので、五月二十六日に日本會議長崎主催の公開講演會でこれを公表した。明國の高官が日本の使者を訊問する際に、琉球併合に同意することを公式に言明し、更に皇帝にまで報告して、中央朝廷で記録したといふ事實である。


 ▽薩摩による檢地を認知
 西暦1609年、薩摩藩は琉球を併合し、以後琉球王に明國皇帝の臣下として朝貢貿易をつづけさせたことはよく知られる。明國側は薩摩の統治を知り、一時は朝貢を禁じようとしたが、やがて已むを得ず朝貢再開をゆるしたことも、近年の研究で明らかになってゐる。


 薩摩が琉球を領有してから七年後の西暦1616年、琉球國は明國に使者を派遣した。明國福建の巡撫(軍政長官)黄承玄はこれについて皇帝に上奏文「琉球の倭情を咨報するを題する疏」(黄承玄の文集「盟鷗堂集」に收める)をたてまつって報告した。その中で黄承玄は、琉球が日本に編入され、日本の役人が統治してゐることを述べる。曰く、
 「近年已折入于倭、疆理其畝、使吏治之。」
 〔近年すでに倭に折入(せつにふ)し、其の畝を疆理(きゃうり)し、吏をしてこれを治めしむ〕
 と。折入とは編入されたことを指す。畝を疆理したとは薩摩藩が琉球で檢地を行なったことを指す。明國側は薩摩藩による檢地まで認識してゐた。


 ▽重大な新事實
 ここまでは瑣事に過ぎないが、越えて西暦1617年、福建に日本の使者明石道友が渡航すると、福建の海道副使(海防兼外交長官)韓仲雍(かんちゅうよう)がこれを訊問した。訊問記録は國立公文書館藏の寫本(しゃほん)「皇明實録」(くゎうみんじつろく、中央朝廷の議事録)の同年八月一日の條に見える。韓仲雍が「日本はなぜ琉球を侵奪したのか」と問ふと、明石道友は供述して曰く、
 「薩摩酋・六奧守、恃強擅兵、稍役屬之、然前王手裏事也。……但須轉責之該島耳。」
 〔薩摩の酋・陸奧守、強きを恃み兵を擅(ほしいまま)にし、稍やこれを役屬せしむ、然れども前王(家康)の手のうちの事なり。……ただ須らく轉じてこれを該島(薩摩)に責むべきのみ〕
 と。薩摩が琉球を併合したのは家康の世で濟んだ話であり、この件は薩摩を追究して欲しい、との意である。家康は前年(西暦1616年)に亡くなってをり、それを理由に言ひわけめいた供述となってゐる。これに對し、韓仲雍は次のやうに諭告した。曰く、
 「汝并琉球、及琉球之私役屬於汝、亦皆吾 天朝赦前事。當自向彼國議之。」
 〔汝(日本)の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役屬するは、亦た皆な吾が天朝(明)の赦前の事なり。まさにみづから彼の國(琉球)に向かひてこれを議すべし〕
 と。これは昨今の中華人民共和國の主張に對して重大な意義を有する。一字一句を檢討せねばならない。            (つづく)
 (本稿で使用する正かなづかひ及び正漢字の趣旨については、「正かなづかひの會」刊行の「かなづかひ」誌上に掲載してゐる。平沼赳夫會長の「國語を考へる國會議員懇談會」と協力する結社である。)

 

 石井 望 長崎純心大学准教授。
 昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。