琉球史新議 ~明は併合に公式に同意した㊦~ 長崎純心大学准教授 石井 望

原文の「役屬」(えきぞく)とは課税や兵役などを以て服屬したことを指す。役屬の主語は琉球であり、琉球が半ば主動的に日本の領土となったものと韓仲雍は理解してゐる。赦前(しゃぜん)とは皇帝による大赦の前を指す。「明史」によれば西暦1614年、皇太后が崩御した際に萬暦(ばんれき)皇帝は天下を大赦した。日本(薩摩藩)が琉球を併合したのはその五年前なので「赦前」となる。即ち大赦の前に日本が琉球を併合したことを不問に付してゐる。


 「亦」(また)とは、過去の家康の事だとの言ひわけを承けて、明國側でも恩赦以前の事だと調子を合はせた語である。中華思想を原則とする明國だが、琉球を屬國(ぞくこく)としてゐたのは形式だけなので、派兵して薩摩を討伐しようにも尖閣航路すら掌握してをらず、已むを得ず迎合したのである。中華思想なるものは虚構であって、歴史の現場に適用できなかったことが多々有る。その好例がこれである。

 

 ▽自分で琉球と談判する事だ
 「議する」とは前罪を追究するのではない。赦前の罪は議しないのが法であり、議するのはこれ以後の琉球領有についてである。「自(みづか)ら」とは日本を指すとも明國を指すとも見える。明國と解すれば、薩摩が現に統治してゐる優先權に異をとなへず、「薩摩と別に自分で談判する」意となり、これ以後の兩屬關係を暗示してゐる。しかしこの解には以下の不足が有る。


 まづ明國としては、これ以後の朝貢について上から命ずることは有っても、琉球と對等に議論する語氣はふさはしくない。
 次に「當」(まさに~すべし)といふ助動詞は、自分がしようといふ場合にも用ゐられるが、韓仲雍が朝貢について自分で決定する權限は無く、中央朝廷が皇帝の名義で決めることである。しかし中央朝廷が「しよう」といふ不確定性の語氣で諭告するのはふさはしからず、「する」と言ひ切るのが通常である。


 また薩摩が現に領有してゐるのに咎め立てせず、明國が自分で琉球と談判するといふのも通じにくい。
 逆に「自ら」が日本を指すと解すれば、韓仲雍は日本による併合に完全に同意したことになる。しかし中華思想の語氣では「汝自ら琉球と談判せよ」と命ずるのが通例であって、矢張り「當」は語氣が弱い。


 私はどちらにも解してみたが、今一つ完全と言ひ切れない。そこで原文に忠實に、「この問題は自分で琉球と談判すべき事だ」と現代語譯すれば通じる。日本でも明國でも既に「前」の事だから、あとはそれぞれ勝手に琉球と談判しようといふ意である。


 以上三解のどれを取るにしても、明國が日本による併合に同意してゐたことだけは等しい。それを日本の使者に對して言明し、中央朝廷にも報告したのである。この時は臺灣(たいわん)島や日本との關係についてもまとめて報告したのだが、それに對する皇帝の返事は「確議して速聞せよ」(しっかり議論して速やかに報告せよ)であった。肯定的方向の返事である。少なくとも否定してゐない。

 

 ▽併合に同意しても異論出ず
 この記録は「皇明實録」及び黄承玄「盟鷗堂集」所收の上奏文に見えるほか、張燮「東西洋考」や陳子龍「皇明經世文編」など、明國の二次史料の中にも見えるもので、朝野に反感を惹起しなかった。なぜなら琉球人の案内によってどうにか渡航して儀式を行なってゐただけなのだから、明國が琉球に援軍を送ることは不可能であった。訊問中で大赦を理由としたのは半ばメンツのために過ぎない。


 以上の史事の周邊を論じた先行研究は幾つか有るが、日本の使者に向かって同意を示したことを論じた研究はこれまで無い。また「皇明實録」の通行複製本ではこの部分が省略されてをり、それが國立公文書館の寫本(しゃほん)に載ってゐるのは、今度の新出史料だと言って良いだらう。二次史料と違って朝廷の公式記録である。(終)