尖閣をまもる秘策あり㊦ 日本でなく福建の領土問題を論じよう 長崎純心大学准教授 石井 望

 この六月三日の共同通信電によると、「中國國家圖書館」は「釣魚島文獻圖籍録」といふ史料集を編纂出版するさうである。この種の宣傳(せんでんせん)に多くの日本國民は困惑してゐる。反駁すれば領土問題が存在することになるし、反駁しなければ言はれ放題となる。日本も對抗して四百八十年にわたる尖閣史料集を出版すれば良いのだらうか、それとも無視すれば良いのだらうか。


 實は、徹底的に反駁して且つ日本の領土問題にしない妙方がある。それは尖閣史料を論ぜず、福建の海防史料だけを論じることである。チャイナ領土を論じるのだから、日本の領土問題にならない。


 ▽福建の領土線・海防線
 歴代の史料を精査すれば、尖閣の遙か西方に福建の領土線・海防線が存在する。チャイナ側の主張では尖閣は臺灣(たいわん)に屬すると言ふが、清國が臺灣に省を創設したのは明治十八年であり、それ以前では福建省の最前線が臺灣島内のどこまで侵攻してゐたかといふ問題だけである。もちろん線が尖閣に到達したことは一度も無かった。福建領土線・海防線を明らかにすれば、必然的に尖閣はチャイナ國外だと確定する。福建琉球航路の西端を論ずる必要はあるが、尖閣に直接論及する必要度は高くない。福建領土線を示す史料としては、例へば次のやうなものがある。


 西暦1579年、蕭崇業「使琉球録」に曰く、
 「彼の國の夷船、汛期なるを以て、宜しく境上に候ふべし。乃ち戊寅(西暦1578)年、獨(ひと)り爽(たが)ひて至らず」
 と。汛(しん)とは季節風である。年末の季節風に乘って琉球船が福建に來航し、翌年使節船が出航するまで「境上」で伺候するのが通例だったといふ意である。福建海岸の國境から琉球航路への出航を待つのだから、尖閣は必然的に境外である。通例だから二度以上は前例があったことになるが、前の二度は本稿上篇で述べた最古の記録の陳侃(西暦1534年)及び、二番目に古い郭汝霖(西暦1561年)だけである。最古の記録から既に國境は福建海岸であった。


 西暦1606年の夏子陽「使琉球録」に曰く、
 「渡海所用の金銀酒器、共じて二百三十餘兩を以て、これを境上に追送す」
 と。使節船が琉球へ出航する前に、福建の長官が國境附近まで金銀酒器を屆けて來たといふ記述である。もちろん尖閣でなく大陸の海岸だらう。


 清の乾隆年間(西暦十八世紀)の「清朝通典」卷六十及び「大清會典」卷五十六によれば、琉球からの朝貢船が歸國(きこく)する時、福建の役人が朝貢使を「送出邊境」(邊境より送り出す)、「伴送出境」(伴送して境を出でしむ)と規定してゐる。伴送して出るのだから、國境のやや外側まで護送したと考へられる。この規定が施行された實證(じっしょう)は歴代枚舉(まいきょ)に暇(いとま)ない。例へば署理福建巡撫・周學健の上奏文に、乾隆八年五月に琉球國の官船が歸國したことを述べて曰く、
 「護送して竿塘(かんたう)の洋面に至り放洋し、長行して國に囘(かへ)る」
 と。中國第一歴史档案館編「中琉歴史關係档案」に見える。竿塘とは福建沿岸十キロあまりの馬祖(ばそ)列島中の一島である。國境を出て護送してもせいぜい馬祖列島あたりまでであった。尖閣はそこから更に三百キロ東方に在る。現在でも金門・馬祖は中華民國・アメリカの勢力圏内に在り、これぞ歴史を貫く眞の第一列島線である。▼全文は「新聞オンライン.com」でhttp://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html