「見た目の美しさ」 辻 維周

 最近読了した本に浅田次郎の「降霊会の夜」がある。自分はもともと浅田文学の大フアンであり、「地下鉄(メトロ)に乗って」「活動寫真の女」「プリズンホテル」は、彼の3大作品だと思っている。浅田文学はストリーテリングにとどまらず、見た目の日本語の美しさにもこだわり続け、漢字、ひらがな、カタカナをシーンによって絶妙に使い分けていた。


 ところがここ数年、浅田の作品にはキレが無く、過去の作品の焼き直し的なものも多く見られたため、どうしても作品の中にのめり込むことができなかった。
 しかし2012年に刊行された「降霊会の夜」(朝日新聞出版)は、浅田がスランプから脱出したかのような、目の覚めるほど素晴らしい作品に仕上がっていた。帯にも「至高の恋愛小説であり、第一級の戦争文学であり、極めつきの現代怪異譚。まさに浅田文学の真骨頂!」と書かれている通り、抜群のストリーテリングと、読者の人生観までをも変えてしまうほどの出来栄えである。


 図らずも浅田は「プリズンホテル」の中で、「真の名作とは読む者や味わう者の人生観や価値観までをも変えてしまうもの」であると言うような事を書いていたが、この作品はまさしくそれに該当する。


 また見た目の日本語の美しさに関して言うならば、「私は夢の中でそうしたように、膝を抱えて屈みこんだ。金色の唐松の葉の降り嵩む路上に、体が少しずつ沈みこんでゆく。芒の綿毛を振り払って顔を上げれば、灰色の天のきわみから、うつつとも知れぬ泡雪がこぼれてきた。」(「降霊会の夜」292ページ)と表記されているが、これを「私は夢の中でそうしたように、膝をかかえてかがみこんだ。金色のカラ松の葉の降りかさむ路上に、体が少しずつ沈みこんでゆく。ススキの綿毛を振り払って顔を上げれば、灰色の天の極みから、現とも知れぬ淡雪がこぼれてきた。」
 としてしまうと、実につまらない文章になってしまう。


 日本語は西洋の言語と違って、「見せる」言語でもある。つまりひらがなで表記するか、カタカナで表記するか、漢字で表記するか、はたまた外来語で表記するかによって、全く違う雰囲気を醸し出してしまう不思議な言語である。しかしメールの普及によって、見た目の美しさが忘れ去られていないだろうか。確かに言葉は時代とともに変遷して行くものであり、紫式部も本居宣長も、「今の言葉はなっていない」と愚痴をこぼしている。


 しかし文章を扱う私がここで憂えているのは、「言葉の変化」ではなく、「文字」としての日本語軽視である。
 世界で最も複雑な言語のひとつと言われる日本語を、見た目の上からももっと大切にしていきたいものである。