明治元年、尖閣の西に境界線あり㊤ 無主地と確認するまで 伊井 茂・石井 望・赤染 康久

「Meyers Konversations-Lexikon」(マイヤー大衆百科) 書誌学学院(独)刊 1892年版より
「Meyers Konversations-Lexikon」(マイヤー大衆百科) 書誌学学院(独)刊 1892年版より

 平成23年7月16日、伊井は明治25年(1892年)刊行のマイヤー百科事典第一冊内「アジア政治大観」図の尖閣部分を自身のブログ「Kaiunmanzokuのざれごと、たわごと、綺麗事」※に掲載した。尖閣の西側にくっきりと線が描かれている。他の各国の国境線と同じ形式であり、尖閣に於いても国境として認識されたと分かる。日本が明治28(1895)年に領有する3年前である。

 百科事典の地図にはもとづく原本が存在する。それは本紙9月29日付既報の「ハンド・アトラス」(シュティーラー氏世界小地図帳)の中の「中国・朝鮮・日本図」(明治元年=1868年製作)である。

同じくマイヤー百科事典 1889年版 グーグルブックスより
同じくマイヤー百科事典 1889年版 グーグルブックスより
 同地図帳中のポリネシア図などでも尖閣の西側に点線が描かれている。地図帳を通観すると、点線は政治勢力分布で島嶼群をまとめたもののようである。日本が尖閣を領有する27年前から、既に西洋では尖閣が日本勢力圏内だという認識が広まっていたのだ。時あたかも明治維新の年、日本はまだ海洋進出を始めていなかった。日本から頼まなくても西洋人は勝手に尖閣を日本領とみなしていたことになる。そうなるまでに当然長いいきさつがあったことは後述しよう。  日本政府は明治28(1895)年に、清の支配が及んでいないと確認し、既に日本の勢力下にある「無主の地」として尖閣諸島を領有した。その正当性を国際認識の上からも裏付けるのが今回の諸史料といえるだろう。  尖閣諸島は中国大陸や台湾に成立したいかなる政権によっても、歴史的に一度もその領土となった事実がない。それは大陸政権の諸記録を精査した日本側研究により早くから明らかになっている。最近いしゐもそこに新たな証拠を加えつつある。  なぜ明治元年にこのような境界線が出現し得たのか。それをさかのぼって行くと、江戸初期の朱印船時代に台湾東岸航路が切り開かれ、その北方延長線上に尖閣諸島があったため、西洋人は先島諸島に附随する島として認識するようになったことが分かってきた。    (文責・伊井 茂)(つづく)  ※http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120716/1342441946