明治元年、尖閣の西に境界線あり㊦ 国内航路上の尖閣諸島 伊井 茂 石井 望 赤染 康久

寛文航海書 「南方渡海古文献図録」(小林写真製版所)より 国立国会図書館蔵 レイシ(尖閣)から南南西に進むとヨナコ(与那国)に至る。
寛文航海書 「南方渡海古文献図録」(小林写真製版所)より 国立国会図書館蔵 レイシ(尖閣)から南南西に進むとヨナコ(与那国)に至る。

 江戸時代初期の「寛文航海書」に、長崎~与那国~ルソン間の朱印船航路で尖閣を記載していたこと、及び1787年にラペルーズ船長が台湾東方の全島嶼は那覇を首府とし、尖閣もそこに属するとの趣旨を述べていたことは、本紙9月29日付既報の通り。いずれも台湾東岸航路が背景にある。


 台湾東岸航路上の離島の一つ「蘭嶼」(らんしょ)は、16世紀末から「たばこしま」と呼ばれていた。17世紀の西洋製の古地図・古書でも「Tabako-Sima」「Tobaco-Xima」などと表記される。そして1837年に台湾東岸を北上したモリソン号の航海日誌によれば、たばこしまは日本語「しま」の最南端なので、日本の影響の及ぶ極限地かも知れないと述べる。蘭嶼は隣の緑島としばしば混同されるので、本紙既報の明治元年の図で緑島まで日本の範囲に入れたのは、モリソン号の報告などに由来すると考えられる。


 ついで1845年、英国軍艦サマラン号も台湾東岸を北上した。その航海日誌の序文では、英国全権使節の禁令で広東以北のいかなる清国領土にも近づくことを禁じられ、転じて遠洋の離島に関心を向けたと述べる。その上でサマラン号は尖閣諸島を測量した。尖閣を清国国境外とみなしていたことは明らかである。


 全権使節がわざわざ禁じたのはなぜか。それはアヘン戦争後の南京条約(1842年)で開港地を定め、英軍の退却を約したからである。かりに尖閣が清国の島であれば、英国軍艦による測量は早くも条約違反として問題となる。

 

 1848年2月5日のロンドン「エコノミスト」週報には、サマラン号について報道があり、清国国境への接近を禁じられたことも紹介されている。サマラン号の全測量が国境の外であったことは当時ひろく知られるに至ったと分かる。但し中華人民共和国政府は元々南京条約無効を主張しているので、「英軍が無効の条約を利用して勝手に尖閣を測量した」と反論する可能性はある。いずれにしろ英国が尖閣を清国外とみなしたことだけは確かである。


 尖閣航路の認識は、福州~那覇間の東西方向系統ばかりが従来から有名だが、台湾東岸を経由する南北方向系統も古くからあった。東西航路の尖閣は琉球国と中国との中間の無主地だったが、南北航路の尖閣は、与那国と長崎との中間の無主地である。琉球国が日本に併合されて以後で言えば、日本国内から日本国内への航路上の無主地である。


 明治28年の編入に向かう尖閣前史のドラマは、かくも長い。朱印船のルソン貿易以後、ラペルーズ船長、モリソン号、サマラン号など配役よろしきを得て、明治元年の線引きを以て我が最終幕にすすむ。西洋人も中国人も全て脇役であり、主役は沖縄を含む日本であった。我々はこの歴史を愛惜し、ひろく世界に知らせよう。(文責・伊井 茂)(終)

 

【著者紹介】
 ▽伊井茂・ビジネスコンサルタント。尖閣情報をインターネットで発信中。
 ▽いしゐのぞむ・長崎純心大准教授、漢文学専攻。
 ▽赤染康久・東京大理学部助教、生物学専攻。