平和教育の難しさ ―思考停止発言について考える―㊦

 残念ながら、ここには重大な誤りがある。中国へ向かう進貢船などは軍船のように防備を固め、武器、弾薬を積み込んでいた。鉄砲の訓練も行っていた。武器、弾薬を持たなかったのでなく、持つことを許されなかっただけで、実際には薩摩から借用していた。この事実が沖縄で一般にあまり知られていないのは、おそらく、それを不都合だと考える琉球史の研究者や沖縄のマスコミが取り上げないからである。
 さて、念のために断っておく。日本兵の軍靴で踏みつけられたアジアの人々の痛みを理解せず、先の大戦を聖戦だと美化するような人々の歴史観に共感を覚えた記憶は、私にない。私の立ち位置は、あえて言えば、村山談話くらいである。過去の誤りを率直に認めて詫びる。当たり前である。
 一方、平和を守り、国を守る。その大切さを子供たちに教える。これも当たり前である。戦争の悲惨さ―平和の尊さを教えるだけでは平和は守れない。分かっていても、ここから先へは進まない。とにかく、批判する。反対する。ここで思考が停止してしまう。
 そして、決まり文句を言う。近隣諸国と仲良くすればいい。平和外交を積極的に進めればいい。基地を無くせばいい。しかし、そう言えるのは国民全体に責任を負う立場にないからである。国の安全保障は反対を唱えておれば解決する問題でないことを、旧社会党が政権与党についたとき、私は知った。
 平和を守る。保守であれ革新であれ、与党であれ野党であれ、国民がこの問題に重大な関心を持たない国は地球上に存在しない。いわゆる「革新」の人びとがタブー視してきたテーマであるが、それを保守勢力の専売特許にさせている現状は望ましいことではない。ただ反対するだけでは、危惧される右傾化の流れは止められない。そう思う。
 現実問題として、尖閣諸島をめぐり日中間に厳しい対立が続いている。領海侵犯が日常的にくり返されている。集団的自衛権のこともある。こうした微妙な問題をどう教えればいいのか。対象が中学生、高校生ともなれば、特設授業のなかで扱っても扱わなくても、課題は残る。教師個人の自由裁量に任せられるような問題ではない。
 平和教育の重大性を認識すればするほど、不安や戸惑いを感じる教師の方が多いのではないか。平和教育は自分の専門教科のように簡単には教えられない。玉津教育長の発言に抗議のこぶしを上げる教師より、自分が実践してきた特設授業をふり返り、その重みを謙虚に問う教師を私は信頼したい。
 市議会における教育長不信任決議や辞任を求める動き、それに反発する動き。私の想像であるが、今回の事態には政治次元の思惑が働いていないのだろうか?玉津教育長の発言を純粋に教育問題として考えれば、責任をとって辞任しなければならない理由があるとは私に思えない。
 石垣市の最大の教育課題は、県内最下位に低迷している子供たちの学力テスト成績を向上させることだった。それは、それこそ過去何十年、関係者の悲願であった。数多くの会合、公開授業、研究会、大会などが計画され、実行され、立派な報告書が残された。しかしながら、期待する成果は得られなかった。
 玉津氏は教育長就任に当たり、その課題に具体的目標を掲げて取り組むことを宣言した。今、それが実を結びつつある。最下位を脱出したと聞く。頑張ればできるという自信を子供たちに与え、離島のハンディはあっても生徒の学力を着実に伸ばすことができるという手応えを若い教師たちに持たせた玉津氏の功績は大きい。
 石垣市の教育を考えるとき、あくまでも主役は子供を持つ若いお父さん、お母さんたち、学校現場の先生方である。その率直な声を聞いてみたい。今は脇役の声しか聞こえない。外野席にいる私の意見など無視してもらってかまわない。私が自分の子供を市内の学校に通わせている親なら、玉津教育長の続投を支持する。