領土編入以前の尖閣諸島における熊本県人の活動㊤ 尖閣諸島文献資料編纂会 國吉 まこも

画像は九州日日新聞10月8日付2面より
画像は九州日日新聞10月8日付2面より

 今年も尖閣諸島開拓の日式典が開催されるが、これは1895年1月14日付の閣議決定にちなんだものである。開拓の日と名付けられてはいるが、この日付を以て尖閣諸島の開拓が始まったというわけではない。閣議決定の文面を読めばわかることだが、同諸島で漁業を試みる者が現れた結果、明治政府は領土編入したわけである。


 同諸島における人々の営みは領土編入以前から開始されており、時の政府がこれを追認した日付に過ぎない、これを念頭に入れて置かなければ、式典を開催する意義も半減する事は言うまでもない。


 さて、政府の閣議決定は沖縄県の要請―具体的には明治26年11月2日付の沖縄県上申に応える形で為されたものである。明治26年頃の尖閣諸島における漁業状況、人々の活動とはどういうものであったか、同年沖縄諸島を訪れた笹森儀助の名著『南島探験』による記述は広く知られるところだが、もう少し具体的な記述が当時の新聞記事に見られるので、簡単にではあるがこれを紹介することで尖閣開拓の日に手向けたいと思う。


 ▽伊沢弥喜太による『漂流談』より
 これは1893年10月、九州日日新聞に掲載された5回に渡る連載記事である。熊本県人の伊沢は1891年・1893年の領土編入以前、2度尖閣においてアホウドリ羽毛採取及び漁業活動に携わった経験を持つ。九州日日の連載記事を下敷きに、他幾つかの資料を交えて、同時期の尖閣諸島における人々の活動を紹介したいと思う。


 1893年9月11日、清国上海より入港した郵船横浜丸より長崎港に降り立った3人の漂流人たちがいた。鹿児島県指宿の人満石良助、同県悪石島の人有川岩助、そして熊本県宇土郡住吉村の人伊沢弥喜太である。


 記事によると、伊沢は1891年頃から沖縄県八重山島より尖閣諸島に渡航して、陸海の物産採獲事業を営んでいたが、のちの1893年6月4日尖閣を目指して石垣島を出帆した際に運悪く海上暴風に遭い、清国に漂着。種々の苦労を経ながらも、清国地方官吏の懇な応接により、無事祖国に送還される事となった。


 ここで、そもそも伊沢が何故沖縄及び八重山に来る事になったかを略述する。伊沢は1885年5月熊本鎮台分遣隊の看護兵として、沖縄県に赴任した。その後は翌1886年県立病院の薬局に転職、翌1887年には三井西表炭坑所属の薬局に職を替えるも、同炭坑は1889年末に一時閉鎖される。勤め先を失った伊沢は沖縄本島国頭の病院に職を得るが、熊本より父が急病との知らせを受け、急遽帰郷。その看病は予想以上に長期に渡り、翌1890年沖縄に戻ったものの、同病院の職を辞さざるを得なかった。


 伊沢が西表炭坑に務めていた時、尖閣の事を耳にしたという―台湾を距る遠からざるの所に、児場島と称する無人島あり。信天翁群族せり。嘗て人あり。其鳥の羽毛を抜きて之を横浜に送りしに、頗る外人の好評を得たり。又た其周囲の近海には魚族群生して漁獲の利、甚だ多し―。


 職を失した伊沢は八重山西表島に立ち寄るも同炭坑は以前閉鎖状態である。この時に至り伊沢の脳裡にアホウドリが群れる尖閣の島が思い起こされたのだろうか、―余は一びは探検の為め之れ(※尖閣)に渡航せんと志しも、時期未だ至らず、準備熟せざりしかば、遂に其志を達するを得ず。常に以て憾みと為せしが、幸いにして今回は炭鉱事務所員三谷伊兵(※正しくは伊兵衛か)、鹿児島人松村仁之助、同永井喜左衛門(※南島探験には喜右衛門とある)の三人、余の志を賛じて其計画を助けんと誓えり―。


 三谷、松村、永井という3人のパトロンを得た伊沢は、炭坑で使用されていた石炭積み船(5t)及び資金の提供を受け、八重山に遠征していた糸満人6人(サバニ一艘、サバ釣船1艘)を伴い尖閣を目指すこととなった。1891年8月、石垣を出帆した伊沢らは、まず西表に渡り、そこから与那国を経て、尖閣に渡った。(つづく)