領土編入以前の尖閣諸島における熊本県人の活動㊥ 尖閣諸島文献資料編纂会 國吉 まこも

 写真は1908年ごろ撮影された久場島での一コマ。中央の母娘(長女真伎1901年生)と左隣に写る父弥喜太。
 写真は1908年ごろ撮影された久場島での一コマ。中央の母娘(長女真伎1901年生)と左隣に写る父弥喜太。

 与那国を経由する理由は、同島より永井が手配していた食料―米俵を受け取るためである。
 与那国からは1昼夜で尖閣に航したそうである(11月9日午後1時出帆、翌10日午前8時魚釣島着)。無動力の帆船時代とはいえ、順風を得れば八重山からはそう遠くない島々であった事が窺えよう。


 無事島に上陸した伊沢らは直ちに海岸に漂着する木材で2軒の小屋を仕立て、風雨を凌ぐ準備を整えた。島には水が湧き出で、野生の大根等の野草も少なからずあり、アホウドリ、カツオドリを始めとする海鳥、野鳥が群生しており、食料調達については問題なかったようである。


 殊にアホウドリは夥しく群生―遠く之を望めば全島白紙をはり廻わしたる如く、到る所信天翁ならざるなし。山に入らんとするときは、木片を以て之を払い除かざれば通行するを得ず。手を以て之を捕ゆるに、其易きこと、落ちたる物を拾うが如く、其実際は決して想像の及ぶ所に非ず。―


 当時、魚釣島でのアホウドリは取り放題であった。記事によると、当時その羽毛は1kg当り25円程度で取引されたという。伊沢は同行の糸満人に命じて、1日アホウドリ捕獲に専念させた所、彼は日の暮れる前に千羽以上のアホウドリを捕獲したそうである。領有後の久場島におけるアホウドリ捕獲状況を琉球新報(1900年6月25日付『無人島の遺利』)が報じているが、この時は1日で300羽とある。当時の魚釣島はアホウドリの一大繁殖地であり、おそらく久場島の及ぶ所ではなかったのであろう。


 伊沢は羽毛を採取する傍ら、その肉を燻製干肉に製して、八重山に送ったところ「余程旨かりし」との好評を得た。また島での食事の際、肉を煮て卵とじ(アホウドリの親子丼か)にすれば頗る美味だと述べている。


 漁業については、サメ、サワラ類が豊富なこと、また近海に出れば30kg前後のアラ(ミーバイの1種か)も立ちどころに数本釣れたそうである。周囲はカツオの群れも夥しく、試みにカツオ節を製したところ、頗る見事な節を得た。が、渡島の主なる目的はアホウドリの羽毛であったので、漁獲物については余技に留まり八重山に送ることはなかったという。


 明治26年の渡島の際に、伊沢は羽毛採取に留まらず、漁業においても活動しようと計画を立てた。必要な漁具についてはのちに石垣島より送致する確約を松村、永井から得て、糸満人と出稼人を率いて渡島し羽毛採取に取りかかった。が、待てど暮らせど石垣島より約束の漁具は届かない。


 業を煮やした伊沢は同年4月頃、一旦魚釣島を糸満人と共に出帆、石垣島に帰島し松村等に面会する。事情を聞いたところ、漁具については手筈が整わず準備出来ていないことを知る。ともかくも島に残した出稼人を迎えに行くことに決し、6月4日船頭として雇った鹿児島県人満石、有川2名を伴い、尖閣目指して石垣島を出帆した。


 当初、海上は少し時化ているも、嵐の襲ってくる様子はなく、翌日には魚釣島に付く筈であったが、夜が明けても眼に入るのは大海原のみである。翌6日、遠く西方にぼんやりと島の姿が見えた。これは台湾に違いないと船の進路を向けるが、嵐の襲来に遭い、ここに至って伊沢の船は完全に遭難することとなる。石垣島を出帆して漂流する事10日間。6月14日船は中国大陸清国温州府に属する1孤島に流れ着いた。


 清国に漂着した伊沢ら一行は、一路福建省を目指すも、その間に再度の漂流や同国地方官吏の懇切丁寧な応対、同地日本人団体の援助もあって、冒頭に記した様に、無事帰国。長崎港へと降り立つわけだが、今回はその部分は割愛させていただく。一つ言うならば、地方官吏の伊沢らへの応対は、清国領土である無人島尖閣で、許可を得ることなく、不法に羽毛採取及び漁業等を行った者に対するそれとは思えないものである。


 なお、記事の中で、伊沢は再度沖縄県八重山に渡り、尖閣での活動を続ける決意を述べているが、有言実行、尖閣の領土編入後は古賀辰四郎による同諸島開拓の一翼を担う事になる。また、魚釣島に残された出稼人はその後、夜光貝採取で渡島した別の糸満人らによって保護救出されていることも付記する(南島探験より)。


 余談だが、1856(安政3)年生の伊沢はこの年37才。未だ独身であったが、尖閣での開拓の間に妻を娶り、久場島で2人の娘を授かったそうである(高橋庄五郎著『尖閣列島ノート』より)。
 さて、話は変わって、伊沢ら3人が長崎港に降り立った9月11日を遡る事10日、9月1日、沖縄本島那覇港には尖閣を目指す熊本県人の集団の姿があった。彼らの名は「図南軍」という。(つづく)