領土編入以前の尖閣諸島における熊本県人の活動㊦ 尖閣諸島文献資料編纂会 國吉 まこも

 南島探験より無人島(尖閣諸島)への航路が記されている略図。
 南島探験より無人島(尖閣諸島)への航路が記されている略図。

 ▽読売新聞が報じた熊本県漁業集団「図南軍」の活躍記事より
 「図南軍」とは熊本県より尖閣諸島を目指して遠征してきた漁業者集団の呼称である。野田正、山隈惟男をリーダーに十数名の天草漁夫で結成され、2艘の漁船を有す。


 伊沢弥喜太と、この図南軍との直接の関係は見出せない。伊沢は西表での見聞より尖閣を目指すことになったが、野田らは熊本県にいながら尖閣を有望な漁場であると認め出発している。両者の出発点は全く別であることに注意を払わなければならない。


 図南軍の活動が、東京で発行される読売新聞(1893年9月より1894年2月、4回に亘る)でも報道されている事も興味深い点であるが、これは同年9月15日より発刊された琉球新報の報道に因るものであると筆者は考えている。根拠は、同じ頃の九州日日新聞に図南軍の活動記事について、琉球新報によるとの説明があるからである。ともかく、この漁業集団の活動を簡単に紹介したいと思う。


 6月13日の九州日日新聞特別広告欄で、野田正、山隈惟男の両氏が今回図南の壮挙を企画したので送別会を鎮西館で行う旨の告知がなされている。送別会がどの様なものだったか、記事がないので知る由もないが、その後の8月8日尖閣諸島目指して熊本を出発したことが同紙に報じられ、その後、島原を経て鹿児島に15日着し、17日には奄美大島に向かう予定であるとの続報がなされている。


 8月31日夜、図南軍の一行は那覇港に到着。翌9月1日には笹森儀助と面談している事が『南島探験』に記されている。同書によると野田らの計画は当初より沖縄県当局に知られ、本島滞在の節は有志者よりの饗応が屡々なされたそうである。


 読売新聞の記事によると、奈良原知事もその一人であったようである。知事は一行を旧御物城に招いて酒宴を開き―壮快なる図南軍の発途を送るの演説を為し、次に自ら薩摩琵琶の一曲を声高らかに朗吟し、夫より船旗授与式を行い、漁船二艘に、第一舜天丸、第二舜天丸の名を命じ、終て酒杯の間に豪談し、翌一日右一行は風雨に乗じて那覇港を発し激浪怒涛を衝いて、尖閣群島に向かいたりと。―


 八重山に無事着した一行は、石垣島近海で第一舜天丸による試漁を実施したところ、立ちどころにサメ20尾以上を漁獲したという。そうして順風を待ち、9月30日魚釣島へ向けて石垣島を出帆した。その後、尖閣での試漁を終えた一行は石垣島に帰帆。野田、山隈の両氏は漁獲による製造品(鱶鰭、油、魚肚、干肉、干皮など)を携えて、汽船大有丸で本島那覇に帰港、尖閣遠征の結果を県庁に報告した。図南軍が製した品々を見た県庁の人々及び在覇の商人等は、その見事さに感嘆したという。


 さて、この野田ら図南軍の活動は、別方面に波及する事となる。その後の1894年2月の読売新聞記事によると、野田の報告―(尖閣諸島は)水産の利、拓殖の便は勿論、地味米麦に適し、島中所々に淡水湧出するが故に人類の生活に差支えなけれども、未だ何人も移住せし模様なく、又何国の版図に附属せるの形跡もなしと云えり。―この報告を受けた県庁では、内務省に照会(すなわち冒頭に記した1893年11月2日付の領土編入上申である)し、それに応える形で時の政府は1895年1月14日付で尖閣諸島領土編入を正式に閣議決定した。


 奇しくも伊沢の活動は領土編入後の尖閣諸島開拓へとつながり、図南軍の活動は尖閣諸島の領土編入へとつながった事になる。故郷熊本を遠く離れ、ここ八重山、そして尖閣諸島に影響を与えた2つのケースを想っていただければ幸いです。(おわり)