尖閣諸島歴史問答~開拓の日に寄せて④ 長崎純心大学 石井 望准教授

 明治二十八年一月十四日(今の尖閣諸島開拓の日)に尖閣を領有するまで、日本政府は十年間「無主地確認」を進めたと言ふ。その動きは十年間だけだったのか。

第四囘 明治七年、大久保利通がほぼ無主地確認を北京で通告した

 

 【史料】
 『淡水廳志』卷十五引『蕃社紀略』、明治四年刊
 「山以西民蕃雜居、山以東有蕃無民。於東西之間分疆畫界。界外蕃或歸化、或未歸化。」
 〔山以西は民蕃雜居し、山以東は蕃あり民なし。東西の間に於いて疆を分かち界を劃す。界外の蕃、或は歸化(きか)し、或は未だ歸化せず。〕
 〔釋辭〕
 淡水:臺灣(たいわん)島の最北端の地名。
 山:臺灣島を南北に貫く中央山脈。
 蕃(ばん):先住民。
 民:清國人。
 疆:境域。
 界:分界線。
 【解説】 この史料は臺灣島を概論し、中央山脈を分界線として、東側は清國外、西側は清國内としてゐる。
 明治七年、日本が臺灣島東南部の牡丹社に出兵した際、北京で談判した大久保利通は、臺灣の地誌の記載にもとづいて臺灣東部が清國の統治外であることを指摘した。談判の記録は外交史料『同治朝籌辦夷務始末』卷九十七に見える。大久保が引いた書は、『續修臺灣府志』(ぞくしうたいわんふし)及び『淡水廳志』(たんすゐちゃうし)所引の鄧傳安(とうでんあん)『蕃(番)社紀略』(ばんしゃきりゃく)である。

 

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