清國の「釣魚臺」は尖閣ではなかった!!㊦ 長崎純心大学准教授 いしゐ のぞむ

 不確定史料がつながる
 第一系統の釣魚臺は東に在り、第三系統の釣魚臺は西に在る。第二系統は不確定だが、第一第三系統いづれかの位置に擬すべきである。第一系統に擬するのがチャイナ主張であり、その通りならば尖閣が臺灣の地誌に載ってゐることになるから、清國領土外ながら地理的附隨性を有する。


 しかし殘念ながら、第二系統の中には第三系統に繋(つな)がる史料がある。西暦千八百八十年頃の方濬頤「臺灣地勢番情紀略」である。その文に曰く、
 「鷄籠山陰有釣魚嶼者、舟可泊、是宜設防。」
 (鷄籠山陰に釣魚嶼なる者有り、舟泊すべし、これ宜(よろ)しく防を設くべし)
 と。鷄籠山とは臺灣最北端の基隆である。山陰とは山・島の陰となる正北側を指す。この釣魚臺は臺灣の北方島嶼であり、尖閣ではない。第三系統と同じである。しかし釣魚嶼だけを單獨で記載する點(てん)では第二系統と同じである。舟が停泊できるといふのも第二系統の十艘停泊にもとづく記述だらう。十艘停泊できるのは臺灣北方の彭家嶼である。方濬頤(はうしゅんい)は第二系統の釣魚臺を臺灣北方の島として認識したのである。


 附屬島嶼説は消滅した
 方濬頤の認識は正しい。なぜなら現代人は世界地圖を見てゐるので、第二系統の「大洋の北」を遠く八重山海域の北側と理解してしまふが、方濬頤は帆船時代の末の人である。帆船時代に大海を越えるのは困難な大事業であり、地圖も不備であるから、臺灣島東部の「大洋の北」とは、大洋を望む沿岸海域の北側とした方濬頤の認識が自然なのである。また第一系統の尖閣史料では、釣魚嶼は常に東方と理解されてをり、北方ではない。第二系統にあてはめれば「大洋の東」でなければならない。


 帆船時代には尖閣まで航行して半年後の季節風を待って臺灣に戻ることは有り得ない。尖閣まで航行すれば必ず琉球國まで行って半年後を待つ。そのため第一系統の尖閣は全て琉球國とともに記述される。第二系統だけは琉球國と無縁ながら、尖閣まで行って戻って來たと書いてあるわけではない。されば第二系統をあてはめ得るのは、第一系統の尖閣でなく、第三系統の臺灣島北方なのである。


 第二系統中で最古の『臺海使槎録』は、根據(こんきょ)無く臺灣の北に釣魚臺を記述したわけではなく、早くから第三系統の『籌海圖編』など諸圖(しょづ)が花瓶嶼の西側に釣魚嶼を描いてゐたのだから、その浸潤下で『臺海使槎録』の記述が生まれたと考へられる。


 チャイナ公式主張の「附屬島嶼」説は第二系統にもとづくので、それが臺灣北方島嶼だったとなると、法的のみならず文化的にも附屬説は消滅する。日本は怯むことなく尖閣古史を語るべきである。
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 八重山日報社にご後援頂いた五月十一日講演會では、パソコンの不調で貴重史料を映寫できなかったことを深くお詫びます。ご臨席頂いた方々には、お詫びのしるしに翌週那覇で行なった尖閣講座のDVDビデオを贈呈したいので、電子メール・ファックス・葉書などで八重山日報社にご聯絡方法をお知らせ頂きたく、宜しくお願ひ申し上げます。