基地問題は民族差別ではない 兼次 映利加

 〝差別〟という言葉を調べると、その中には「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。」(三省堂・大辞林)とあります。身近に思い浮かべる差別には、アメリカやヨーロッパで長年続いた黒人差別を始めとする人種差別、インドなどのイスラム圏に未だに色濃く残る階級差別、そして食文化に対する差別もありますし、男尊女卑などの考え方も一種の差別でしょう。沖縄では、ほとんど感じることはありませんでしたが、日本にも大きな問題として部落差別などがありました。


 先日、「基地問題は民族差別」という記事を読みましたが、基地・自衛隊の配備と民族差別は全くの別物です。この二つを結び付ける事には、隠された意図があるように思えて仕方がありません。誰の、どのような意図でしょうか。それは沖縄が独立をして喜ぶ人の、琉球独立のための県民煽動計画です。では、沖縄が独立をして喜ぶのは誰でしょうか。尖閣問題で多くの県民は気が付いています。日本の一つの地域である沖縄が、防衛力も、経済力も、科学技術も保たないままに独立をした場合、中国は西沙諸島・南沙諸島と同じく沖縄の島々を占拠するでしょう。それに必要な時間は一日も無いはずです。そして不法占拠ならまだしも、我々もといた日本語を話す日本人の人権は一瞬にして崩壊します。それはチベットや、東トルキスタンを見れば簡単に想像がつく事であり、廃藩置県で琉球から日本の統治に変わったことや戦後の米軍統治と比較になるようなものではありません。


 そうした中国共産党の思惑に関係無く、沖縄の独立を願う県民ももちろんいるのだろうと思います。なぜ沖縄が差別を受けていると感じ、アメリカや日本政府に異常なまでの反感を持っているのでしょうか。それは一つには、王国時代に沖縄が一番豊かで栄えていたという歴史認識があり、逆に明治政府によって沖縄は虐げられたのだという認識があるからだと思います。しかし必ずしもそうではありません。沖縄は貿易時代に栄華を極めた一方で、身分の差や男女の別によって学校に通えない人が多く、当然識字率も低かったのです。それが、明治政府の教育制度の徹底によって、どの家庭の子どもも学校に通えるようになりました。それは王国時代に利益があった一部の人にとっては特権を一つ失い、多くの庶民にとっては大変喜ばれた事の象徴的な例だと思います。


 かつての欧米がアジアやアフリカを植民支配し、人々を奴隷として搾取していた時、その土地に学校を作り教育を施す事は決してありませんでした。それは、教育によって先住民族が言葉や文字を交わして結束したり、知識を得ることによって技術や産業を持つことを恐れたからです。あくまで奴隷にしかすぎなかった人々が、〝教育〟によって統治者の立場を脅かす存在になる事を欧米人は知っていたのです。ところが日本国は、沖縄を含む日本国内のみならず、一時期統治した台湾やパラオでも学校を作り、どんな人にも分け隔てなく教育を施しました。差別し、虐げようという支配者の心理とは真逆で、「共に栄えましょう」としてきたのです。


 琉球王国に懐古する気持ちの強い人や、廃藩置県によってそれまでの特権を失ったという意識のある方には、日本に被害を受けたという思いもあるのかもしれません。しかしそのような被害者意識が、新たな民族問題を招くことになるのです。


 日本政府が本当に、沖縄に対して差別をしてきたのなら、沖縄の現在の発展はありません。私は東京に来て、むしろ沖縄県民の「大和人差別」を感じました。背景にさまざまな歴史があるのは知っています。しかしむやみやたらに「差別をされている」と訴えたり、また他の人を差別したりすることの大きな問題は、それによって本当に果たすべきことを見失ってしまうことです。


 本土と沖縄に民族差別問題は存在しません。ありもしない差別問題を訴えている間に、外敵は一歩一歩と近付いてきます。私たち沖縄に生まれた者が本当に果たすべきことは、「おきなわ」の名の通りに、県民と本土の人を包む大きな輪をつくることです。そうしてあらゆる困難を乗り越えて、受け継がれてきた土地と文化を守り、先人への尊敬と感謝の念を子どもたちの心に育むこと、沖縄の未来を明るくすることです。