尖閣の東西國境線を對比 清國勅任副大使の記録にまた新事實㊦ 石井 望

李鼎元『使琉球記』嘉慶七年序の師竹齋刊本 ハーバード大學藏 グーグル社提供
李鼎元『使琉球記』嘉慶七年序の師竹齋刊本 ハーバード大學藏 グーグル社提供

 公式度の高い渡航記録
 李鼎元の「門戸」は漢詩の比喩に過ぎないので、論據(ろんきょ)として脆弱(ぜいじゃく)だと思ふ人も有らう。それを補ふ李鼎元自身の記述が幾つか有る。
 まづ第一に李鼎元が『師竹齋集』と同時に同版元から刊行した『使琉球記』卷三によれば、福州出航後に經由(けいゆ)した島々は、五虎門、官塘(馬祖列島)、彭家山、釣魚臺(尖閣の魚釣島)、赤尾嶼(尖閣の大正島)、以上五ヶ島を數(かぞ)へる。官塘は竿塘と同じである。そして琉球國境内の姑米山(久米島)に到達した時に曰く、
  「所見亦僅三山、即至姑米」
  (見る所もまた僅かに三山にして即ち姑米に至る)
 と。三山とは三ヶ島である。五ヶ島を經由しながら三ヶ島だけとするのは、清國の外に出た後、琉球人が船中で針路を司った海域の三ヶ島(彭家山、釣魚臺、赤尾嶼)を指す。他の諸史料と併せ覽(み)れば、最初の五虎門及び官塘は清國の勢力内だったため琉球人に針路を任せず、島數も算入しないのである。李鼎元自身が漢詩で詠じた東西相似形と全く同じ事を、『使琉球記』の「三山」が補ふ形になってゐる。

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