「中華台北」の悲哀

 「台湾人に生まれた悲哀」という言葉がある。日本人にとっては、ピントこない人がほとんどで、馴染みがない言葉である。
 1994年、作家の故司馬遼太郎氏が台湾台北市で李登輝元総統と対談した際、李氏から飛び出した発言だ。この言葉は日本人が台湾を理解する際の、一つのキーワードになりうる。
 李氏のいう悲哀の解釈は様々あるが、戦前の日本統治時代に日本人の下に置かれた待遇や、戦後、国民党政権が起こした2・28事件(1947年に起きた暴動事件)の犠牲、長期間続いた同党による戒厳令下の圧政などが入るだろう。
 最近、この「台湾人に生まれた悲哀」を感じさせる出来事が台北市であった。
 台湾では初となる、学生スポーツの祭典「ユニバーシアード夏季大会」(8月19日から30日まで)で、台湾の選手団が「中華台北(チャイニーズ・タイペイ)」と表記されていたことである。ユニバーシアードは五輪に準じる運営となっているためだ。
 台湾内で開催されている大会であっても、台湾選手は台湾の呼称は使えず、中華台北の下、参加したのだ。自らの国(台湾は国際的には中国の地域とされている)の名前を名乗って出場できないとは、かなり屈辱的な扱いである。李氏の言葉を思い出した。
 なぜ、五輪で台湾は中華台北と呼ばれているのか。1971年、中国が国連に加盟した際、台湾は追放され、次第に国際社会で孤立を深めていったところまで遡らなければならない。
 その当時、中国つまり中華人民共和国を意味する「一つの中国」の原則の下で、中華民国(台湾)は国際社会から事実上、無視されたのも同然だった。
 そこで政治的な妥協策として1979年英文名称を「Chinese Taipei Olympic Committee」とし、89年には英文名称を中国語名称「中華台北」とすることで、中国側と合意した。その後、経済協力機構(OECD)、アジア太平洋経済協力国際機関(APEC)でも中華台北が使用されている。
 この扱いについて多くの台湾住民は表面的には甘んじてきた。日本統治移前はオランダなど、常に外国勢力に抑圧されてきただけに、台湾人の忍耐強さには脱帽させられる。
 しかし今回は中華台北を海外で使用するならともかく、台湾内での扱いともなると、さすがに反発が出た。市民団体が台北市内で、中華台北でなく台湾の呼称をすべきと訴える集会を開いた。
 また在日台湾同郷会が東京五輪での中華台北表記を「台湾と訂正せよ」と、日本オリンピック委員会に要求し、独立派グループが同五輪で台湾名義での参加を求めて市内で座談会を開くなど、中華台北を巡って不満が続出。東京五輪にも飛び火しそうで、日本人も今後、無関心ではいられないはずだ。
 昨年7月、石垣島を訪問した李氏が「日台は運命共同体だ」と発言したことからも分かるように、台湾蘇澳鎮と姉妹都市関係にある石垣市は台湾との結び付きは強い。石垣港には海外からのクルーズ船が多数寄港しており、多くの台湾人を運んでおり、乗客の大多数を占める台湾人が市内を闊歩(かっぽ)する。
 その姿からは「台湾人に生まれた悲哀」は想像できないが、その裏側に潜む悲哀を知ることによって、双方の理解をさらに進める時が到来している。